今回の一語一会は「時」です。


これも般若心経の冒頭「観自在菩薩 行 深般若波羅蜜多<時>・・・」

とある、あの「時」です。


これまたきわめてありふれた語です。


前回、照見という語と度一切苦厄という語を今回以降に説明すると書き

ました。

これらの語句についての説明の前に、時という語を説明しておいたほうが

後の説明の際イメージがつくりやすいでしょう。


さて、その「時」です。


この「時」は光陰矢のごとしという、矢のように飛び去っていく「時」では

ありません。


「秋」と書いて「とき」と読ませる「時」とか、めぐり会う機会がやってきた、

時期が到来した、といったときに使う語を思い描いたほうがいいでしょう。


このあたりのことは、般若心経 般若波羅蜜多の巻に書きました。


ここでは、深般若波羅蜜多がその時突然やってきたのです。

般若波羅蜜多は、日々行じ続け年季が明ければ自動的に

深般若波羅蜜多がやってくるといったものではないのです。


予期しても、予期しなくても、あるとき突然深般若波羅蜜多はやってくる

ということをここでは示しているのです。


ですから、この「時」という字があるか、ないかでは内容がとんでもなく

違ってきます。


この「時」という語は「深」という語と呼応して大きな意味を持ってきます。


行がどのように進むかを明らかにしているわけです。

行はなだらかに上に向かって進むというわけではないのです。

境涯は階段状に飛躍していくのです。


こういいますと、凝念、静慮、三昧は境界がないといったではないか、

といわれるかもしれません。


それは、凝念、静慮、三昧は意識が連続して変化していくということです。


その意識の到達する高みは、あるときまでは平らに進み、

あるとき突然飛躍し、こんな高みがあるのだとわかるのでしょう。


これを覚るというのではないでしょうか。


このように解釈しないと、実際に観自在菩薩が行を行じて「照見した」

という瞑想の内容に迫れません。

ひいては般若心経の訴えていることにも迫れません。


「照見した」とはどんな見方をし、なにを見極めたのかは次回にしましょう。