前回は受でした。


受に続く想行識の行識は般若心経 空の巻その8に書いた十二因縁で

説明しました。


想は現在使われている想という意味と変わりはありません。


ここでは特に付け加えることはありませんので想行識は省略します。


そして、今回は生です。


生は般若心経では不生不滅と出てきます。


生というのは生まれるという意味ではありません。

生ずるという意味です。


ですから不生不滅とあれば生ずるでもない、滅するでもない、という

ことになります。


生ずるという語と滅するという語は対極にある対称語です。


そこで、生ずるでもない、滅するでもないとあればこれはわからない、

という意味です。


対称語であればなんでも同じです。


垢と浄も対称語です。

増と減も対称語です。

ですからいずれもわからないという意味です。


わからないということは決められないという意味です。


生ずるのだとも決められない。

滅するとも決められない。

ということです。


このことからも一つの空間、つまりわれわれが眼にし、肌で感じている

三次元の現実空間一つの中で説明しようとしてもても説明できない

といっていることが伺われます。


生滅垢浄増減という語はそれぞれの意味を持っていますが、

このような組み合わせになるとそれぞれの意味は全くなくなります。


つまるところわからないということになるのです。


ここで、空の世界というもう一つの空間を想定すれば全部明解に

説明がつくというのは般若心経空の巻で詳しく説明したとおりです。


こうわかってくると、是故空中無色無受想行識の「是故」という文字

の存在が意味を持ってきます。


「この故に」とは二つの世界を観ているから次に「空中」とわれわれに

見えない空の世界のことを語るということにつながっていくのです。


そうでないと「この故に空中では・・・」とつながっていかないでしょう。


観自在菩薩もまことに意地が悪いと申しましょうか、難しいいい方を

して下さいます。


「この故に」とご自分だけ五蘊皆空と照見され、観てわかっておられる

からといってもう少しわかりやすいいい方もあるのではないでしょうか。


ちなみに、「般若心経・金剛般若経」(岩波文庫)の註には、このように

説明してあります。


「すべての存在するものは根源的には空なるものであって、生ずる

ことも滅することもないの意。

また不生不滅は、『すべての存在するものには実体がないという

特性がある』ことにおいて言われていることである。

実体がない(空)ということは、相関的(縁起・相依性)という

ことである。

ことに中論では『不滅不生なる縁起』ということを冒頭に

かかげているほどである。

この意味では、生を離れた滅はなく、滅を離れた生はない

という解釈も成り立つ。云々」

とあります。


この説明で一般の人はわかるのでしょうか。


私には存在するものが根源的には空なるものというのは

わかりません。


実体のないものが存在するといえるかどうか疑問に思えます。


実体がないと何故相関的になるのかもわかりません。


このことを前提にすると般若心経のすべてがわからなくなります。


このあと、不垢不諍 不増不減と続きますのでこれまた一語一会に

なりませんが次回もこだわります。