今回は垢です。
垢とは煩悩に汚れたということです。
仏教辞典によりますと煩悩とはこうあります。
「煩悩 心身を乱し、悩ませる汚れた心的活動の総称。
輪廻転生をもたらす業を引き起こすことによって、
業とともに、衆生を迷いの世界に繋ぎとめておく原因となるもの。
外面に現れた行為(業)よりは、むしろその動機となる内面の
惑(煩悩)を重視するのが仏教の特徴であり、
それゆえ伝統的な仏教における実践の主眼は、
業そのものよりは煩悩を除くこと(断惑)に向けられている」
仏教における実践の主眼は煩悩を除くことかもしれませんが、
仏道修行では、般若心経 般若波羅蜜多の巻その9に書いたように
惑を断ずるのは瞑想を効果有らしめるための予備的段階の修行
でしょう。
内面の惑が瞑想における凝念(ぎょうねん)、静慮(じょうりょ)を
妨げることは容易に想像できます。
また辞典では、
「阿含経典では隋眠、漏、取、縛、結、使などさまざまな呼称のもとに、
煩悩に相当する種々の要素が挙げられているが、それらの中で
代表的なものは貪、瞋、癡のいわゆる三毒である」
とあります。
貪は煩悩に相当する種々の要素とありますが、煩悩に引きずられて
心がこだわりから開放されないけれども思うようにもいかない、
そこで限りなくその欲するものを求める結果となる。
そんな状態をいうのでしょう。
また瞋はそのどうにも思うようにならない苛立ちの現れた状態、
あるいは苛立ちの内面に潜んでいる状態でしょう。
そして、癡は惑の根源である無智のことです。
すこし、辞典の中から隋眠、漏、取、縛、結、使について見てみます。
「隋眠 常に心身に付きまとい深層の阿頼耶識の中に隠れ潜んでいる
煩悩の種子を意味する」
これは阿含経のできた頃からは随分と後世の唯識派のいうところです。
心の奥に潜んでいるということです。
「漏 さまざまな心の汚れを総称して表す語で、広い意味で煩悩と同義
と考えられる。
仏教では古来(流れでること)(漏出)の意味に解し汚れ・煩悩は五つの
感覚器官と心から流れ出て心を散乱させるものと説明した」
押さえ込んでも、押さえ込んでもぬるぬると漏れ出てくる、しつこくて
いやらしい感じのにじみ出てくる呼び名です。
「取 さまざまな対象を求めて止まず、取って放さないこと。
煩悩の異名として用いられる。
またときに取られ執着される対象をさす」
手にくっ付いたゴムのりを取り除こうとしているときのことを思い出して
ください。
左手についたゴムのりを、右手で取ると、今度は右手にへばりついて
放れない。
「縛 煩悩を表す術後の一つ。不善の精神作用・心理状態が人間の心
を縛り付けて拘束する様子から表現された語」
縛り付けられた縄から逃れようと散々もがいたけれど、
もがけばもがくほど縄目はきつくなる。
「結 煩悩を表す術語の一つ。不善の心理状態が心を拘束し結びつける
様子から表現された語である。生存に拘束する煩悩」
もう結びついてはなれない。結局生きるとはこんなもんだよ。あきらめるか。
「使 煩悩の異名。煩悩は衆生に付き従い、迷いの生存に繋縛し解放させ
ないからである」
あいつも俺と同じだ。みんな同じなんだよ。
修行者達の悪戦苦闘する姿が語の中から浮かんでくるではないですか。
しかし、私のコメントのような感想が出てくるようでは修行になりません。
垢とはこんな風に汚れているということです。
この垢は空の世界へ行ったからといって、汚れが少くなる、とか消える
というものではありません。
また三次元現実の世界の戻ってきたからといって垢が増えるというもの
ではありません。
空の世界では修行することはできませんから、現実の世界にいるうちに
修行をして垢を減らさなくてはなりません。
みんな俺と同じなんだよ、とあきらめないで、この世にいるうちに、
たゆまず、怠らず正しい行動を続けるということでしょう。
それが仏道修行につながるということでしょう。