8月のお盆の週は、
子供たちが部活や学童がお休みだったので
実家に帰省しました。
コロナで、県外移動は控えるようにとなっていましたが、いつまでも行かなかったら、
余命少ない父と会えるのはあと何回だろう
といつも思っていました。
とはいえ長期滞在は、
子供たちがどこにも行けなくて退屈するので、
2泊くらいにしようかなと考えていたのですが、
あのお盆の時期、九州は大雨が続いて、
高速が通行止めになっていました。
急いで帰るのは諦めて、ゆっくり過ごそう。
友達と会う約束もキャンセルして、
父の部屋に入り込んで、
1日一緒に過ごしました。
父は好きなテレビを見ながらもすぐ寝てしまい、
1日そんなに寝るもの?と思うほどでしたが、
末期の前立腺癌、骨転移もしています。
余命の少ない人は、
1日のほとんどの時間を体力の維持に使ってるんだろうなと思いました。
ご飯もほとんど食べられていなかったし、
孫達に会えるのももう最後だろうなと思いました。
だけど最期がとにかく安楽ならばそれで良い。
そう思って、数日共に過ごしたのち
熊本に戻りました。
それから1週間もしないうちに、
癌のせいで、尿道が狭くなり残尿がかなり多いとのことで、
尿管カテーテルを挿入することになったのですが、家での管理は難しく、尿路感染を起こしてしまい、入院することになりました。
私が病院に駆けつけた時は、
福岡はまだ緊急事態宣言は発令されておらず、
2回ほど面会ができたのですが、
発令後は県外者の面会は出来なくなりました。
入院してから少しボケてしまったのか、
父はあまり会話ができなくなり、
ご飯も食べれなくなり、あっという間に亡くなってしまいました。
だけど最期はとても安らかに、母と呼吸を合わせて、息を引き取ったとのことで、
悲しいよりは安堵、という感じでした。
訃報を聞いてから、
子供たちを連れて、実家に帰ったら、
葬儀屋さんの送迎で父も実家に帰ってきました。
夜は一晩子供たちも一緒に過ごし、
ゆっくりお別れを言いました。
最後に父とちゃんと会話できたのは、
甲子園の熊工の試合の後でした。
珍しく父から電話があり、
負けたけどよか試合やったと言っていました。
父は明るく朗らかで、
誰とでもすぐに仲良くなる人でした。
飲み屋で知り合って意気投合しては、家に連れて帰ってきて飲んだり(笑)
孫の運動会では警備員のおじさんと前立腺の話で盛り上がったり(笑)
たばこを吸うために通った近くのモスバーガーでは、友達が出来、
モスに行かなくなってからも、
元気ですかと電話があったり(笑)
かと言って、
いつもいつも人と関わらないと寂しいという人ではなく、
大好きな読書。
野球、スポーツ観戦。
病気でできなくなったことがあっても、
悲観することなく、その時その状況を楽しめる人でした。
父は毎日、一言日記を書いていました。
継続するってすごいですね。
体調が悪くなった6月位からは、書くことができなかったようで手帳は白紙が続いていました。
日記には天気や、
その日食べたものが記されていましたが、時々自己啓発のような言葉もありました。
その中で私が素敵だと思った言葉を写真を撮りました。
病魔に侵されても、
負け犬にはならぬと
とても強い気持ちが書かれていて、
きっともっと生きたかったのかもしれません。
孫の行先も気になったでしょうね。
火葬場から出た時の空は
晴天でした。
私が死んだら、父に会えると思ったら、
死もそんなに怖くない気がしてきました。
さ、前向きに頑張ろう。