どうも家にこもっている時間が長いせいか、いざ下界?!へ!という

 

 スーパーへの買い物は、

 

 やっぱり、来るんじゃないかった・・。という土日の荒れ模様に遭遇。

 

 基本人混みは苦手なので避けるように、時間をずらしていたのだけれど、どうも

 

 コロナ禍明けの言動が変化したかしら?と感じつつ、さまざまな事情でこの時間を選択し、

 

 後悔するのも、自分主導じゃないからな~。自分事ならそうしないよな~という違和感の中

 

 なので、奇遇な事も起こるのは自分の中での蓄積された概念。

 

 ス-パーは、パート勤務の経験があるから故の先入観があり、どうしてそういう動き?とか、

 

 相手側の立場の味方も同時にできてしまい、私の頃は・・。と思うと、配慮部分での教育が

 

 というか、土日なので単発パートなのか?!タイミーなのか?という程、まぁイライラする場面が

 

 多くて、一体この正体はなんなんだ?!と思ったら・・・・。

  最近広がり目立つ白髪。美容院で染めてもらったのは昨年の12月13日

 

 それは目立つよな~と、先月二男(美容室同じ)からお誘いがあったが、断ったよな~。と、

 

 バサバサで中途半端?にのびた髪を見つめ、老婆になる訳にはいかん!と、

 

 カラーと言う名の白髪染めを市販で購入してみようと、久しぶりの買い物で

 

 パッケージも変わり、以前に使っていたカラーナンバーもよくわからないので、

 

 直感と言う名の適当に選んで染めてみたら・・。

 

 うわっ!と、

 

 叶姉妹の妹色に仕上がったw。

 

 ピンク、それも世にいう“ピンク”を超えたピンク。

 

 艶効果も反映され、光の下では爆上がり!

 

 自分で少しカットしてみたものの、「痛い中年女史か!」と心の中でツッコミを入れつつ、 

 

 それでも「まあ、いいか」と自分を許す。これが自己表現というものなのかもしれない。

 

 そして、もしかすると、これは愛おしい自己愛の芽生えなのかもしれない。

 

 

 

 

 

他者との関わりを軽く流してしまうのか、それとも依存的な関係を築くのか。こうした選択は、家族の歴史や先祖代々のつながりにも関係してくるのかもしれません。深く考えるようになった一方で、人生の最期における「表現」というものにも思いを巡らせるようになりました。

言葉による発信力は高まり、選択肢も増えた今の時代。私たちはアルゴリズムによる制約を受けながらも、その中でどのように自分自身の考えを表現していくかを模索しています。現実の世界では、まだ昭和世代が主導権を握っているものの、私の感覚では「本音を語ること」が許される場面が増えてきたように感じます。与えられた立場や環境を通じて、その仕組みを改めて見つめ直す機会が増えました。

社会の構造を問い直しながら、「これは本当に必要なものなのか?」と問いかけられる人が、次世代の役割を担っていくのかもしれません。形式的な表現によって物事が成立しているが、それは単に都合の良い形に過ぎないのではないか――そんな疑問も生まれます。こうした疑問を俯瞰するのも、また学びのひとつなのでしょう。

今の時代にはそぐわない慣習が残っている中で、未来を見据えた選択のタイミングは誰が決めるのか。その決定方法が「くじ引きレベル」で行われているとしたら、それはもはや合理的な判断とは言えず、集団的無意識によるものだと気づかされます。

 

日曜日の朝、ふとそんなことを考えました。

 

 

年齢を重ねるにつれて、思考の変化が生じるのは自然なことです。その背景には様々な要因があり、それが人との関わり方に影響を与えることもあります。(BY   AI)