「戦わない奴らが 戦ってる奴らを笑うなよ!!」by 千秋(あひるの空)
3年前に感じたことと昨年末に感じたことと、今感じることはほぼ同じだ。
仕事だろうが遊びだろうが本当に好きなやりたいことに真正面から向き合って戦っていなければ、生きている本物の実感は得られない。
そして、最近ではアドレナリンを分泌させ興奮を得られるような闘争の機会はますます少なくなってきていると感じる。
それは私の年齢のせいかもしれないが、世の中全体を見渡しても、特に日本に居て感じる絶望的で冷めた空気にうんざりしてしまう。
大谷翔平クンや、オリンピックで活躍したスポーツ選手たちは、テレビ越しに感動を与えてはくれたが、何か自分とはかけ離れた異世界で活躍する人たちのように思えてしまう。
コロナ渦で対策のために駆けずり回った政府の官僚や役人たちも、たぶんスポーツ選手並に国民の為に全力を尽くしたに違いないが、それが選挙や政権維持のためなのかと考えると、国民にその情熱は届かず、むなしく空回りしているように感じる。
結局、今年は心のテンションが上がることが何もなかったというか、本来テンションがあがる闘争や戦いに身を委ねることに嫌気がさしてしまった。
思い返せば3年前の香港で、激化する民主化デモに巻き込まれたときにはさすがに怖かったが、時代の転換期にその場所に今自分が居るという実感があり、催涙弾やゴム弾を恐れずに警官隊と戦う香港の若者たちの自由に対する情熱に共感して興奮した。
それも昨年の中国による香港国家安全維持法の制定によってなりを潜めてしまい、あれが最後の闘争経験になってしまった気がする。
その後アメリカでは、Black Lives Matterという黒人の人種差別反対運動や新型コロナの発生原因となったとされる中国との対立、アジアンヘイト問題などが起こり、大統領選では激戦の末トランプが敗北した。
世界は、いつまで経っても不平等で差別や偏見に満ちあふれており、誰がどんなきれい事を並べたところで、自由や平等や人権というものは、それを手に入れようとする戦いなくして誰かが与えてくれるものではなさそうだ。
我々一般市民の大半は、食って寝て排泄するだけでなく、仕事をして金を稼いで遊ぶという犬の散歩のような与えられたレクレーションを糧に擬似的な幸福を感じ、上流から下流に水が流れるように流されて生き、そして死んでいく。
コロナ渦にあったこの2年を振り返ってみると、生活においてもビジネスにおいても攻めるべきものはあまりなく、カネに困ってないない富裕層の人たちは、政府の規制やキャンペーンに踊らされずに、静かに引き籠もっており、結果としてそれが最善の策だったと思われる。
目にも見えず、科学的にも医学的にもその対処法が不確定で不明瞭なウイルス感染との戦いにおいて、我々が果敢に攻めていくメリットは何もない。
結局、自分や自分の家族や友人や身の回りのひとたちがコロナに感染せず生き延びることができるというのが最良の結果であり、最悪自分だけでも生き残ればいいのだ。
しかし、コロナのせいで仕事ができなくなり、収入が途絶えて生きていけなくなる人たちにとっては、感染リスクを取ってでも仕事をして稼がなければ生きていけない。
そして、実際に生きていけなくなっているひとが大勢いる。
カネを稼ぐ能力で回る弱肉強食の資本主義社会では、食っていけない奴らは食われるだけだ。
政府は、大多数の疑似幸福で飼い慣らされてきた国民を食わさなければならいし、それが成り立たなければ政権も国体も維持できない。
そこで、ベーシックインカム的な発想で、給付金のバラマキが行われているのは理解できるが、そもそも赤字財政の国家にその余力があるわけもなく、国債の発行と日銀の買い受けによって生み出されるカネだけで全ての国民を食わすことはできない。
そこで、富の再分配という議論が発生し、「既に持てる富裕層のカネを搾り取り、大半の食えない貧乏人にばらまく」という極めて共産主義的な方針が何故か正義のような印象を与える。
岸田内閣の推進する「新しい資本主義」とは、格差社会を改善する為の富の再分配システムの構築だと思われるが、そのコンセプトや具体的な施策については誰も理解できない。
世の中の一握りの富裕層は、既に資産を海外に疎開しており、トヨタを筆頭に巨大企業はその生産拠点も流通拠点も海外に移転済みであることを考えると、このロビンフッド政策の搾取対象からは基本的に外れているような気がする。
CRS(Common Reporting Standard)の普及によって、国外の資産も税務当局は把握できるようになり、それを活用した国外財産調書の強制的な収集も進められているため、今までのような富裕層のタックスヘイブンを利用した資産隠しもできなくはなっているものの、既に海外移転された資産に関しては、本人が日本非居住者になってしまえば課税はできない。
また、2024年には40年の歴史を持つ福沢諭吉札は渋沢栄一札に切り替えられ、それによって60兆円以上あるとされるタンス預金はあぶり出される。
政府は、国民の資産を炙り出し、それを課税によって再分配しようとしているようだ。
にも関わらず、富裕層に動揺は少ない。
使い切れない規模のお金を持っている富裕層にとってみれば、貨幣価値の変動や課税の強化など、自分たちの生命を脅かすほどの脅威ではない。
むしろ、有事によって国家の安全保障が揺らぐことや、ウイルス感染の拡大によって自分が被る健康被害や医療の崩壊といったお金では解決できない問題の発生のほうが脅威だ。
富裕層ではない一般民衆にとっては、原因や理由が何であれ、目の前のカネが全てであり、カネがなければ生きていけない。
目の前にカネをぶら下げられれば、その源資の確保の為に自分たちとは世界の違う富裕層にどれだけ課税されようが、国債の無限発行によってインフレが引き起こされて経済が崩壊しようが、そんなことはどうでも良いと思えるだろうし、働かなくてもカネさえ貰えるのであればむしろウェルカムだろう。
だが、実際に政府が推進しようとしていることは、そのような慈善事業ではなく、富の再分配という聞こえの良い名目で、羊のように飼い慣らされている民衆が死なない程度に生きて行けて、レベルの大きく下がった幸福感のデフォルト値を受け入れさせて刃向かわないようにしつけ治す作業に過ぎない。
つまり、政府の目的は民衆から国や体制に刃向かう牙(闘争心)を奪うことにある。
戦争やクーデターでも起こらない限り、上位階層の利権は盤石なものであり、日本のような国で羊のように飼い慣らされた民衆が憲法で謳われているような平等を本当の意味で得られる可能性はほぼ無い。
これはまるで「羊たちの沈黙」だ。
屠られるのがわかっていて最後には悲鳴すら上げなくなる羊たち。
羊であるかぎり、いずれは屠られ食われる運命には変わりない。
「Japan as Silence of the Lambs」と呼ばれる時代の到来なのかもしれない。
こんな半端ない閉塞感と冷めた空気の中で、富裕層ではない我々一般民衆が全て死を黙って受け入れるような従順な子羊である必要はどう考えてもない。
漫画「あひるの空」では、身長149cmの3ポイントシューターが主人公となっているが、バスケの世界で身長という才能がない主人公の空には常識的に考えてほぼ選手としての希望がない。
バスケ選手だった母親が、子供の頃の空に言う言葉が印象に残っている。
「いい、空? 背が低いことがハンデじゃないのよ。」
「背が低いのを“弱い”と感じることがハンデになるの。」
それはまるで、殆どのカネのない一般大衆が、自分はカネがないから弱いと感じ、最初から戦いを放棄しているのと似ている。
たとえ羊であっても、牙をもがれたら終わりだ。
あひるは飛べないので、あひるの翼は飛べない翼だ。
それでも車谷空は諦めない。
とにかく翼がほしい。
そして飛べない翼でも、羽ばたいて空を感じたいと。