『最終兵器彼女』にみる究極の恋愛について(3.11追悼) | Mr.Gの気まぐれ投資コラム

Mr.Gの気まぐれ投資コラム

50代グダグダちょい悪おやじMr.Gの趣味と海外投資に関するコラムです。
香港を拠点に活動する個人投資家であり、自称「投資戦略予報士」Mr.Gがお伝えする海外投資の生情報。
ねだるな勝ち取れ、さすれば与えられん!

 

3.11東日本大震災から10年を迎えるにあたって敢えて「最終兵器彼女」という高橋しんさんの名作について語ってみたい。

 

「さいしゅうへいきかのじょ」という題名は全部漢字だとそうでもないが、ひらがなだとまあまあ長い。

それ故「サイカノ」とも略されるらしい。

副題は「The last love song on this little planet」(この星で一番最後のラブストーリー)となっている。

 

 

なぜ、震災とこの漫画が被るのかはこの作品を観て頂けると分ると思うが、震災だけではなく、戦争や事故や病気などで、大切な人失った人がこの作品を観て泣かずにはいられないだろう。

我々人間が、運命や時間というものに対して如何に無力で、それに対抗して人を愛するということができない不器用で悲しい生き物なのかということを感じさせるストーリーだ。

 

何気ない日常で始まるこの作品は、高橋しんさんのほのぼのとした画調から単なる高校生のラブコメと誤解してしまう位だが、その何気ないほのぼのとした日常と、戦争や、地球の週末という理不尽で残酷な運命がクロスオーバーし、オマケに彼女は軍によって改造された究極の殺戮兵器というぶっ飛んだ設定だが、いったい敵が何者かも分らない戦争に民間人が巻き込まれてゆき、大切なひとを失ったり、大切な人を守る為に死んでしまったり、大切な人に大切な気持ちをうまく伝えられなかったり、あっという間に全てを失ってしまう究極の状況下で、人を好きになること、愛することのリアルを生々しく、かつ、繊細に表現している。

 

この作品の原作は、2000年の1月から2001年の10月まで「ビッグコミックスピリッツ」に連載されていたもので、20年前の作品だ。

この頃は既にドコモのi-modeとかあった時代だが、田舎の高校生が携帯を持っている時代ではなかった為か作中に携帯が出てこないのも今観ると新鮮な感じがする。

 

アニメ化は2003年に行われ、その後2006年には前田亜季、窪塚俊介の主演で実写化されているが、不評に終わっているようだ。

そもそも実写版でサイカノの世界観を表現することには無理があったとは思われる。

 

余談だが、この実写版「最終兵器彼女」の残念な失敗からインスパイアされて、「猟奇的な彼女」の郭在容(クァク・ジェヨン)監督が綾瀬はるか主演の「僕の彼女はサイボーグ」を作ったらしい。

「最終兵器+彼女」と、「サイボーグ+彼女」という題名のコンセプトが似ているだけでストーリーや世界観は全く異なるが、映画としては純粋に楽しめる作品に仕上がっている。

 

 

「最終兵器彼女」の原作マンガと私が最初に出会ったのは、今から20年前のビッグコミック・スピリッツ連載時だったのだが、アニメ版はつい数日前にNetflixで始めて視聴した。

20年前のマンガ連載中には泣くほど心を締め付けるインパクトを感じなかったが、今このタイミングでアニメ版をみてなぜか泣かずにはおれなかった。

それはこの20年間の時代の流れというものが有るからだろう。

 

この20年の間には、世界こそ滅びなかったもののマンガの連載終盤の2001年には9.11テロがあり、それから10年後の2011年には東日本大震災が起こった。

そして昨年からの新型コロナパンデミックという目に見えない恐怖を今この瞬間に我々は体験している。

 

このマンガが連載されてからの20年は、リアルに人類にとって喪失の歴史だったと言えるし、そのなかを生きてきて今もなんとか生きている我々ひとりひとりが失ってきたものは計り知れない。

 

そういう、日常の中に予期せず運命的にクロスオーバーしてくる生命の危機というものを、知らず知らずの間に我々は普通の出来事として取り込んで日常化してしまう。

 

それが人間の生存本能というものなのかもしれないが、地震や津波など天災も、理由も分らない戦争も、原因不明の病気やウイルス感染からも、我々の多くは逃げることができず、逃げられないと分っているから諦めるのか、諦めるから逃げられないのかはわからないが、最終的には運命に従うが如く逃げることを諦めてしまう。まるで肉食獣の餌食となる草食獣が最後には逃げることを止めるのと似ている。

 

ただ、その逃げようもない何かによって、我々は大切なものを突然、理不尽に失うこととなり、そのときになって始めて、今まで当たり前のように目の前にあった何かやそばに居てくれた誰かの大切さに気付く。

 

そしてその瞬間に、もっと早く気持ちを伝えていれば、もっと早くに気付けていれば・・・ああしていれば、こうしていれば・・・と後悔する。

友達や恋人や家族など、大切な人を思いやる時間は、その大切さに気付くのがそれを失う直前だとすれば、ほんの一瞬でしか無い。

その時間を人間には止めることも巻き戻すこともできず、生き残った人間の後悔は一生続き、失ったものは二度と帰っては来ない。

 

過去に失ってしまった大切なものや、それを失わせた事象を我々生きている人間が覚えておかなければならない理由は、そのような愚かで悲しく切ない思いをこれから先繰り返さない為だと思うが、残念なことに、人間の生存本能に基づくある種の防御本能がつらく悲しい記憶を日々年々風化させていく。

 

人として運命に対し無力な我々は、時間の経過と共に脳のデータ処理機能に従って、覚えておかなければならないようなことを忘れ、忘れたいことをいつまでも記憶していたりする愚かで悲しい生き物だ。

 

死んでしまった人に悲しみは残らない。

生き残った人にだけ、いつ来るとも知れない終わりの時までその悲しみの余韻は残る。

 

しかし、そのいつまであるか分らない残された時間を、悲しみの記憶を乗り越えて、悔いの無いように毎日大切に一生懸命頑張っていきることが、今この世に生かされている我々がすべきことなのだろう。