ちなみにこの本はまだ読んでいないので内容についてはわからないが、もしかしたら同じようなことを書いているかもしれない。 題名で興味をそそられた方は読んでみて下さい。
とりあえずブログの内容とは関係ないので悪しからず(笑)
恋愛や結婚に際して、フロー的には出会いのタイミングと相性というのが重要な決定要素だが、ストック的な見方をすると、お互いが相手に対して値踏みする見極めのポイントはお金と愛情のバランスシートなのかもしれない。
「愛さえあれば、お金なんて要らない」と言うひとも居るだろうし、現実に「愛はお金では買えない」ということも真実だ。
人の心や、愛情という形のない人間の感情をお金で買うことはできない。
しかし、自分に対してお金や時間をいっぱい使ってくれる人に対して徐々に愛情を持ってしまうことはあり得るだろうし、逆に愛していたが、相手があまりにもお金が無く稼ぐ能力もないことが分って愛情が冷めていくということもある。
どうもお金と愛情には相関関係があると考えなければならないような気がする。
原始的にはお金=食い物と考えて良いだろう。
貨幣資本主義の現代では、お金を稼ぐことは古代原始時代では狩りに出ることに等しい。
狩りや漁で食物を得なければならなかった時代には、体力に優れた男性が主に食料を調達する係だったが、現代のお金を稼ぐという知能ゲームでは男女の能力差は基本的に無くなってしまった。
そこで、封建主義的な考えの社会では、この現代においても女性は働きに出ず家を守るべきだ的な論理を押しつけることで、男性は辛うじてお金を稼ぐ優位な立場を維持することができていた。
「女性が多いと会議が長引く」という発言だけで元総理がオリパラ組織委員会の会長を辞任させられるような世の中では、そのような封建主義的な考えを持つことは許されない。
いずれにしても、男女雇用均等法といった法律において男女の雇用に関する平等が定められるような現代において、お金を稼ぐ能力に男女差はないと言える。
ましてや、ポストコロナ社会でテレワークが一般化すれば、より女性の社会進出の機会は増えることだろう。
愛情というものを抜きにしても、男女が家庭を築いて生活していくためには、生存競争として、生活力の無い女性は生活力のある男性を、生活力の無い男性は生活力のある女性を探し出さなければ、生きてはいけない。
逆に、生活力のある男性や女性は、相手に生活力があろうがなかろうが、自分が愛する対象を自由に探し出して選ぶことができる。
これが現代における「資本主義的恋愛の自由」である。
但し、資本力のある男女だけが自由にパートナーを選ぶ権利を行使すると社会のモラルが崩れるという問題が発生するので、一夫一婦制のようなルールが必要となる。
ここでも恋愛や結婚というある種のゲームが、ルール上は公正だとしても決して公平ではないという資本主義社会の現実にぶつかる。
話はそれるが、少子化対策というのを政府が真剣に考えているのであれば、婚姻制度を見直して、財力のある男性や女性が、婚姻と関係なく子供を自由に産みたひとが生みたいだけ自由に生んで育てることができるような法改正が必要だろう。
もしくは、一律に子供を生めば一人あたり毎年100万円x10年の養育手当が貰えるとか、MMTに従い「少子化対策国債」でも発行してカネをばらまけばいい。
新型コロナ感染で老人が沢山死んでしまうことを防ぐ対策にお金を使うのと、子供を沢山産んで育てられる環境を作ることはどちらも国の未来にとっては同じように重要だろう。
愛があり、結婚しても、お金がなければ子供を育てていくことはできない。
普通に考えれば、将来の収入に不安の有る夫婦が無計画に子供を産むことはできないはずだ。
生物学的にも将来に対して不安が有れば、生殖活動のプライオリティーは低くなり、本能的に子供を産もうとは思わなくなるそうだ。
少子化問題は、資本主義社会において、究極的には経済(お金)の問題だと言える。
それは、今のところお金があれば食い物が手に入る社会だからに過ぎない。
お金があっても食い物が手に入らないような状況になれば、お金の価値など無意味であり要するに限りなくゼロに近くなる。
お金がない為に食べ物が手に入らず飢えて死んでしまう可哀想な子供たちがいっぱいいるアフリカの貧困地域では、お金が無いのに出生率は桁違いに高いが、それは戦争や飢えでの子供の死亡率が桁違いに高いからだと考えられる。
これは、戦争の無い平和な未来はお金で買えるのか?という問題だが、愛がお金で買えないように戦争の無い平和な未来も残念ながらお金では買えそうに無い。
日本では未婚率も毎年上昇し、お一人様社会が万円しているが、結婚という制度の崩壊も経済の問題であると考えれば、将来の経済的な不安が、子孫を残すモチベーションを下げると同時に婚姻の意義も薄れていって当然なのだろう。
少なくとも、日本では結婚しなければ生きていけないとか、子供はいくら産んでもどんどん死んでいくといった悲惨な状況ではない。
愛し合うことも、結婚することも、子供を作ることも、どれもそれほど自分が生きていいく上で切羽詰まった問題ではないというのが今の日本なのかもしれない。
結婚も、出産も、そもそも愛情がなければ始まらないが、ぬるい幸せのなかで生きている我々の大半はは、誰かを愛したり愛されたりすることの必要性すらそれほど致命的には感じていない。
もしかすると、誰かを愛したり誰かに愛されたりしなければ、愛情=ゼロなので、同様にお金もゼロでいい?ということになるからなのだろうか。
逆に、「愛すれば愛するだけお金が貰える」というルール(制度)があったとすれば、資本主義社会では誰もが誰もを毎日愛することに努力する世の中が生まれるのかもしれない。
今の世の中は、仮にカネのあるひとをどれだけ愛しても、愛されなければ金は貰えない。
愛情を何で計るかが問題だが、政府による「愛情ポイント制度」みたいなものがあり、誰かに愛情を与えたと公正に評価されたひとにポイントが付いて現金化できるとか、電子マネー時代にはそういう制度も出現するかもしれない。
ポイントが付くなら、積立投資もするし、ポイントが付くなら人を愛してもいいか・・・的な?
究極の少子化対策と言えるかもしれない。
お互いの強い愛さえあれば、お金がなくても恋愛関係は発生し、一定の確率で結婚にもたどり着くし、セックスをすれば子供が生まれることもあるだろうが、「金の切れ目が縁の切れ目」というが、どちらかに経済力がなければその関係を維持していくことは難しいし、子供を養育することも負担になる。
しかし、お金は腐るほど持っていても、人間的に愛せないようなひとが、カネと地位にモノをいわせて強引に愛を手に入れようとしても、人の心はカネでは買えないばかりか愛情は離れていってしまう。
お金のない若い人は、まずはお金を稼ぐこと、もしくは今は無くても稼げるスキルを身につけることが重要であり、それがなければ話にもならない。
どうしてもお金を稼ぐ能力が絶望的にないと自覚できているひとは、お金の有る人に愛されるような人間性と魅力を身につけて、経済力のある異性に無条件で愛されるようなスキルを身につけるしかない。
愛さえあれば十分とか、自分の美貌や魅力に溺れていて自分は常に無条件に愛されると思い込んでいると、金も愛も得られない敗者の人生を歩むか、もしくは実現しない夢を語り続ける詐欺師を目指すしか無くなる。
一方、経済力の十分に有る人は、持っているお金以上に、そのお金や経済力と関係なく愛されるようなキャラをその持っているお金を投資して作りあげていく日々の地味な努力が必要だろう。
モテる金持ちのオッサンは案外そういう地味な努力を続けていたりするものだ。
お金はありすぎてもなさ過ぎても幸福な恋愛にたどり着くのが難しい。
結局、ほどほどの愛情とぼどぼどの金がバランス良く長く続くのがいちばん良いということなのかもしれないが、その絶妙なバランス型ポートフォリオを構築し維持する技術というのはなかなかハードルが高い。
そもそも公平ではない恋愛というゲームをするには私は既に歳を取り過ぎたが、バブル時代に青春を謳歌した世代としては、「愛情もお金で買える」という嘘でも良いから簡単なルールを信じることができた方がゲームには参加しやすいし、お金などという墓場には持って行けない類いのバーチャルコインを手に入れようとするモチベーションには多少つながる気はする。
だが、そんな甘えた考えではこれからの世界を幸せに生きていくことはできないのだろう。
愛することも、愛されることも、お金を稼ぐことも、生きている限りバランス良く維持する努力をし続けなければならないのだ。
たとえ愛も金ももう要らないと思えたとしても、この資本主義の世界は、地球上の愛と金が成長し続けなければ滅んでしまう。
CO2の削減も大事だが、地球上の愛情の枯渇はSDGs的にも問題なのではないだろうか?