より幸せに生きる為に必要な人生のクラッチワークとは? | Mr.Gの気まぐれ投資コラム

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50代グダグダちょい悪おやじMr.Gの趣味と海外投資に関するコラムです。
香港を拠点に活動する個人投資家であり、自称「投資戦略予報士」Mr.Gがお伝えする海外投資の生情報。
ねだるな勝ち取れ、さすれば与えられん!

 

今年から、死ぬまで自動車はMT(マニュアル車)しか保有しない方針に決めた。

・・・というか、マニュアル車が運転できなくなったときが死ぬときだという気がしている。

 

愛車のひとつであるティプトロのポルシェ993は、964のマニュアルトランスミッションに積み替える予定だ。

 

もちろん、AT(オートマチックトランスミッション)の技術を否定するわけでもないし、それを運転することはやぶさかではないが、これから自分が幸せに生きる為には、アナログな「クラッチワーク」の技術が必要不可欠だと確信したからだ。

 

AT(オートマ)限定の免許が多くなった今、若い人たちにとって既にMT(マニュアルトランスミッション)って何?っていうくらい絶滅危惧種で見たことも触ったこともない人も多いことだろう。

 

MT(マニュアルトランスミッション)とは、クラッチという動力をエンジンからミッションを通じて駆動車輪に繋いだり、切ったりする接点を左足(オートバイの場合は左手のレバー)で操作しながらギアをチェンジするアナログな仕組みで、その操作を自動的に行うのがいわゆるオートマ=AT(オートマチックトランスミッション)という事になる。

 

現在のクルマは、実用車からスポーツ車やレース用の車両に至まで、殆どがAT化されており、多分これから先は、殆どがEV(電動車)になってゆき、さらにAIの進歩によって自動運転化され、ミッションどころかハンドルすら操作する必要が無くなっていくのかもしれない。

 

今後新しく生産されるクルマには自動ブレーキの装備が義務づけられることになったが、走っているものを安全に止めるという運転の基本技術ですら、強制的に人間よりも機械の判断に委ねなければならなくなっている。

 

あまりにも多くの高齢者の運転する某プリウスの暴走?により、なし崩し的に決まったことのようにも思えるが、メディアによる洗脳がじわじわ定着してきた感じがする。

 

高齢者の暴走多発というニュース → 高齢者の免許の返上促進

→ 自動ブレーキの義務化

→ 自動運転の促進

 

こういった図式が目に浮かぶ。

かつての自動車大国である日本は、AIによる自動運転やEV(電動車)の技術に関しては、中国の方が相当先行しており、既に後進国といわれている有様なのでしょうがないのかもしれない。

 

あおり運転怖いという報道 → ドライブレコーダーバカ売れ → 密告社会の完成

 

これも似たような民主主義国におけるなし崩し的管理社会の推進の風潮であり、「風が吹けば桶屋が儲かる」的マーケティングだといえる。

 

さて、そんな中なぜ私が時代に逆行してアナログなマニュアル車にこだわるのか?

それはひと言で言ってしまえばマニュアル車を運転する方がオートマよりも運転が楽しいということに尽きるが、それ以上にクラッチワーク(クラッチの操作)というものがクルマを自分の能力でコントロールして自在に扱う上で重要な部分であると感じるからで、クルマを運転する資格が自分にあるかどうか?という部分に関わっているように感じているぁらだ。

 

そもそも人間の力を遥かに超越するパワーを人間が技術でコントロールするために、クラッチというアナログな仕組みは実に良くできており、クラッチを切っていればパワーは全く駆動に伝達されず暴走のリスクは極めて少ない。

 

さらに大げさに言えば、クルマやバイクを運転することによって生きている幸せを感じる私にとって、その「幸せを感じる資格」を失うということは生きている意味すら失うことに繋がりかねない。

 

たとえば男性の場合、下半身のスティックが機能しなくなり、セックスが不可能になってしまえばセックスフレンドなど不要になる?或いはそんな役立たずなパートナーはもはや不要だと女に捨てられる?運命なのと同じように、マニュアル車が運転できなくなってしまうと大好きなマニュアル車には乗れなくなるという致命的な状況に私の場合は陥る恐怖がある。

 

人生というものも、人と人との繋がりや関係、国や社会や組織との関係において、同じようにクラッチワークを必要としていると思う。

 

ITの進歩によって、人と人との繋がりは格段に拡張し、デジタルに管理されやすくなったが、人間の感覚ではそれが本当に繋がっているのか繋がっていないのか?わかりにくくなってきている。

 

そして、時々ブレーキとその隣にあるアクセルを踏み間違えて暴走するような信じられない事態が発生する。

 

アナログクラッチであれば、クラッチを切る→ギアを入れる→クラッチを繋ぐという一連の動作の中で、仮にギアを入れ間違ってもクラッチがその負担を軽減してくれる安全弁となる。

 

絶妙なクラッチワークとは、切るときにはスパッと切り、繋ぐときには回転を合わせて優しく繋ぐものだ。

 

人間関係でも、別れるときのいざぎよさと繋がるときの柔らかさが重要だと思える。

 

特に、クラッチを繋ぐときに速度に合わせて適切なギアを選択し、回転を合わせて優しく繋ぐという行為は、人間関係においては相手の心を推し量る思いやりや優しさと通じるものがある。

 

オートマ的なデジタルな人間関係においては、偶然回転数の合ったもの同士がシステムによって管理されながら統計的に繋がっていくようなイメージで、それゆえ接点を感じにくい。

 

クラッチを繋ぐように人とうまく繋がれない人が増えていることを、一般的にはコミュニュケーション能力の低下だとか、コミュ障だとか言ったりするが、もしかすると、ある時点からオートマ車ばかりになって殆どマニュアル車に乗る人が居なくなってしまったのと同じように、人間関係もオートマ化が進み、クラッチワークそのものを忘れてしまっただけなのかもしれない。

 

いずれ世界から目に見えて手で数えられる現金のお札というものがキャッシュレス化の普及によって消滅し、全てがデジタル通貨に変わってしまうとすれば、もしかすると人間はお金との付き合い方や扱い方も忘れてしまうかもしれない。

 

少なくとも、我々がいま感じているようなお金の価値や所有感というものは無意味になり、人間とお金の関係は今とは全く異なるものになるに違いない。

 

ちょうど2年前の2018年の年初に書いた「今年の目標」という記事を読み直し、2年前に感じていた社会資本の構築が今後の人生にとって重要だという考えが正しかったということを改めて確認すると共に、当時目標としていた(幸福感の指標たる架空のデジタル通貨)ハピネスコインの収集とそれの社会資本への転換は、全くできなかったというか、むしろハピネスコインを増やすつもりが結果として失ってしまったという現実の重さを感じざるを得ない。

 

当時、「ハピネスコイン」と名付けた価値の正体は、実はクラッチワークとも関係があり、おそらくは「他人を思いやる気持ち」というものを数値化したものではなかったかと思う。

 

それは、他人への思いやりや優しさというような実体のないものを価値の指標としてデジタル化したものといったイメージだ。

 

そのような指標によって人間の価値がデジタルに評価される世界は、実は目前に迫っているのかもしれないが、今は目に見える形で我々は認識できていない。

 

敢えて言うなら、Facebookなどは、既に相当な数値化されたアカウント間の交流情報を蓄積し、それを分析しているだろうと思われる。

 

この先、人間の価値が、今までのように学歴や知能、資産額などといったもので評価されるのではなくFacebookの持っているような「いいね」率や交流率、共感度など人間性のみを数値で現したものがブロックチェーン技術によって価値に変換される時代が来ないとは限らない。

 

今年2019年の抱負としては、「テクノロジーへに順応することと、安易にテクノロジーに迎合しないこと」という相反する2つの要素を組み合わせた目標を立ててみたいと思う。

 

そのために心のクラッチワークは重要な役割を担っている。

 

いまこのタイミングで、人間にとって(自分にとって)必要なテクノロジーと、そうでないものを決めていかないと、今後はさらにテクノロジーによって全ての物事がなし崩し的に支配されていき、最後にはテクノロジーの奴隷となってしまいかねない。

 

これから先、人間が人間らしく幸せに生きて行くことは今までのように単純ではなくなるだろう。

 

GAFAの支配するビッグデータの世界、ブロックチェーン技術の普及によるキャッシュレス社会の到来、AIの進化によるシンギュラリティーへの到達とそれによって政治も経済も人間社会の殆どがAIによって最適化される超高度管理社会の到来。

 

そんな流れの中で、一個人が心の幸せを求めるためには、他人や外界のあらゆるものとの繋がりや接点というものにこだわらざるを得ないし、自動車のクラッチワークのような技術を持ち得ていなければそれを上手くコントロールしていくことは難しいのかもしれない。

 

共にいて幸せだと感じる事のできる何かと、人間本来の心の優しさと思いやりをもって適切な繋がりをコントロールしていくという人生のクラッチワーク技術は、AIがAIを司るシンギュラリティーの到達後の世界においてもAIにはコントロールできない人間固有の技術として評価され続けるだろう。