金融資産がそこそこ有り、既に経済的自由を手にしているいわゆる富裕層の方々と話していると、本来は幸福感に満たされているはずである彼らが、実は「本当の幸福とは何か」をまだ探し求めているということに気付かされる。
かくいう私も、富裕層とはほど遠いものの、これから先の人生で何を求めてどう生きようか?と考えなくはない。
よく、「Gさんはもう働かなくてもいいんじゃないですか?」と言われるが、金融資産のストックがいくらあろうが、またその金融資産の運用で生きていけるとしても、一緒に何かを求め、それを達成する喜びを共有できる仲間が居なければ、あまりにも無機質で退屈な人生のように感じられる。
十分な(より多くの)金融資産を手にすることが、必ずしも幸福を意味するとは限らず、それが人生のゴールではないということは現実に明らかな事なのだ。
多くの人は、お金の心配なく自由に生きられる、お金のために自分や自分と大切な人との時間を犠牲にしなくてもよいような、必要十分な金融資産を得るために生きている。
特に若い世代は、これから先に使わなければお金も多く、それだけたくさん働いて稼がなければならない。
20代の人が一生懸命に働いて働いて、稼いで稼いで、30年後に運良く人よりも多くの金融資産を手にしたとしても、それが人よりも多く幸せをつかんだことにはならないし、その先も必ずしも幸せとは限らない。
一般的には、より多くの金融資産を持ったひとたちの人生がより充実していて、金融資産の少ない人よりも幸福のランクが上のように思われているが、それを達成した人たちの多くは、実はまだ、本当の幸福というものについて思い悩んでいる。
これは、圧倒的に金融資産がない貧困層の人たちからすると、全く想像できない贅沢な悩みだろう。
多くの人が言うように、幸福というものは相対的なものであり、幸福感は極めてパーソナルな感覚的基準である。
ある人が幸福に感じるシンプルなことを、別の人は当たり前に感じて特に幸せだとは思わないということは沢山ある。
人によってその人に合う適切な幸福な人生のポートフォリオというものが存在するのだ。
では、人間はどのようにして理想的な幸福な人生のポートフォリオを手に入れることができるのだろうか?
そんなとりとめのない話しの答えに近いものが、橘玲さんの『幸福の資本論』には書かれている。
この本は、できればこれから幸福を掴みに行く若い世代の人たちに読んでもらいたい。
私のように50を越えてからこのことに気付いても、もう遅すぎるからだ。
橘さんは、非常に論理的に、そして分かりやすく、この不可解な人生の謎について書いている。
書中では、幸福な人生のポートフォリオは、以下の3つの資本(資産)カテゴリーに分類できると書かれている。
1)金融資産(自由)
2)人的資本(自己実現)
3)社会資本(共同体=絆)
1)金融資産に関しては説明するまでもなく、現金や投資証券や不動産といった、いわゆる資産のことで、幸福を構成する要素として重要な要素であることには変わりない。
他の2つの要素と比べると、投資や運用の技術を駆使することによって、急速に増やすことも可能だし、それを一瞬で失うことも可能だ。
2)人的資本と3)社会資本に関しては、数字では表しにくいため、普段これを資本として勘定していない人が多いだろう。
しかし、実は、幸福な人生というコンセプトを深く理解するためには、この数字では表しにくい人的資本と、社会資本はしっかり勘定しなければならない重要な要素であることがわかる。
人的資本とは、自己実現とも表現されているが、要するに「自分の能力」と考えて良い。
我々は一般的に、この人的資本を投下してお金(金融資産)を手にしている。
人的資本は自己投資によってそのポテンシャルを拡大することが可能であり、学校で勉強していて、社会に出るまでは、人的資本は全くお金を生み出さない。
頭が良い、音楽や芸術に秀でている、スポーツができるなど、個人の突出したポテンシャルは、将来プロフェッショナルとして金融資産を生み出すことのできる人的資本の顕著な例と言える。
自分の好きなこと、得意なこと、をプロフェッショナルとして極めていくこと、そしてそのことで食っていけることは、幸福な人生に不可欠な要素と言える。
社会資本とは、絆とも表現されているが、これは「社会的な繋がり」の事であり、たとえば数で価値が決まるわけではないが、友人の数や付き合いの深さといったものだろう。
友達、同僚、親友、恋人、家族、といった人生における仲間との繋がり無くして幸福はあり得ない。
最近では、SNSの普及によりこの社会資本はでれでもその気になれば過去においては考えられrないような膨大な数の社会的な繋がりを手にすることも可能となっている。
そして、3つの中でいちばん数値化が困難なこの社会資本からしか、幸福は生まれない・・・と橘さんは言い切っている。
もちろん、この3つの要素を全てバランス良く手に入れることが理想的なわけだが、2)人的資本と3)社会資本を犠牲にしなければ一般的に1)金融資産を築くことは難しい。
また、1)金融資産をもともと持っていたり、既に手にしている人たちにとって、その金融資産に見合う2)人的資本と2)社会資本を、既に持っている1)金融資産を使わずに手に入れることは難しい。
人的資本は、自分の特性を理解した上で、地道な努力によって培われるものであり、カネで買えるようなものでは無い。
社会資本は、人的資本によって繋がっている関係が本物で、カネ(金融資産)で繋がっている人間関係(つまり社会資本)は、本当の社会資本とは言えない。
カネ(金融資産)に群がってくる繋がりなどないほうがマシだ。
これによって、必要以上の金融資産を持つビジネスオーナーがより孤独化するという現象が発生する。
ちなみに、巷でよく言われる「リア充」というのは、1)金融資産が殆ど無く、2)人的資本と3)社会資本の2つが突出しているポートフォリオ持った人の事らしい。
生きていくためにはお金が必要だから、給料をもらうために企業に雇われて働くという一般的な会社員の人生は、人的資本を企業に提供して、その対価を金融資産として受け取るシステムだ。
人的資本、すなわちその人の能力が高いほど、対価として受け取れる額は多くなるが、その人的資本は企業に搾取されてしまっているので、自分のところには残らない。
企業の雇用システムが持つ巧妙なところは、大きな会社ほど、その大きな組織に属しているということで社員が得られる繋がり感=「架空の社会資本」を提供しているところだ。
つまり、企業側から見ると、架空の社会資本をエサに、社員の人的資本を吸い上げ搾取する現代の合法的な奴隷システムという言い方ができるかもしれない。
人的資本についても、現実には搾取されているにも関わらず、組織の中で自分の能力が認められ評価されているという幻想によって、あたかもそれが存在するかのように思える場合もある。
組織の中で自分の役割が認められ、組織の中であたかも家族のような帰属感が得られている環境で、無事に定年を迎えることができる人たちは、定年までは幸せな人生を歩んだことになる。
しかし、定年後はどうだろうか?
そこそこの金融資産は残ったとしても、会社組織の中で作り上げられた仮想の人的資本と疑似家族のような架空の社会資本は消え去ってしまう。
その時点で自分の過ちに気付いても既に遅すぎる。
会社に雇用されて生きている間は、人的資本と、社会資本は会社に捧げていて自分のものではないと認識した方が良いだろう。
会社における待遇がよくなるほどに、人的資本と社会資本は相対的に失われていく。
何も闇雲に起業や独立を勧める訳ではない。
早くに独立して自分のビジネスを立ち上げた場合、もともと(親から引き継いだ財産など)何らかの理由
による十分な金融資産がない場合には、間違いなく金融資産のボリュームが人的資本や社会資本と比べて極端に低くなる。
さらに、会社の看板のもとで存在していた社会資本は、退職と同時にほぼ消滅する。
結果として、人的資本のみに依存したビジネスモデルを作らざるを得ない。
起業に際しては、自分の持つ人的資本だけでなんとか自分だけが生きて行こうとする「ソロ充」の若者が多いような気がするが、人的資本を犠牲にして金融資産を得る行為はリスクも高いし、結果としてなけなしの人的資産を失えば幸福感も低い。
限られた金融資産をリスクに晒すという点で、起業は必ずしも幸福に繋がるとは限らないのだ。
この人生の幸せなポートフォリオ獲得ゲームは、3つの要素のうち少なくとも2つを握るということが重要であり、この本で言われる「超充」という全ての要素を持ちうるスーパーな人生でなくとも、自己分析と緻密で地道な計画によって、十分に幸せな人生を勝ち取るチャンスは誰にでもあるのだ。
では実際にどのようにしてそれを手に入れるのか?については、この本(幸福の資本論)を読んでみなさんに考えて頂くとして、最後に、「幸福と逆境(苦難)の不都合な関係」という本の末尾で少し語られていることについてお話ししておきたい。
「逆境」という要素は、この本の中では幸福なポートフォリオの要素として登場しないが、多くの逆境を乗り越えたひとの方が幸福の度合いが大きいということが述べられている。
一般的には、人生において多かれ少なかれ誰もが経験する逆境や苦難というものは、多いほど不幸であり、少ないほど幸福であると考えられているにも関わらず、多くの逆境を乗り越えたひとの方が幸福であるというのは論理的に矛盾している。
しかし、結果として人生において神に与えられる試練たる逆境は、幸福な人生を送るためにどうしても必要で重要な簿外ポートフォリオと言わざるを得ない。
大手の企業を早期退職して独立したある友人が、起業を志す大学生の「起業で成功するために何が大切か?」という質問に対して、「死ぬかもしれないような苦境を経験してそれを乗り越えること」と答えていたのが印象的だ。
逆境や苦難を乗り越えることによって、単純にその人のOSがバージョンアップするかのようにレベルアップするということではないのだろう。
たぶん、ひとより多くの苦難や悲しみを経験して乗り越えたひとは、他人が経験する同じような苦難や悲しみの痛みを知っていて、他人に対してより優しくなれるのかもしれない。
他人に対してより優しくなれる心のキャパシティーの大きさが幸福感の感度と関係しているということなのかもしれない。
苦難や逆境は、望んで与えられるものではない。
そもそもそれを望むような超Mなひとはあまりいないだろう。
これから就職を控えた有能かつ恵まれた環境にいる前途悠々な若者にとって、この話は一体どのように響いたのだろう?
幸福=Happiness というものが、主観的で心理的な概念である限り、与えられた逆境は、それを乗り越えることができれば、より大きな幸福を与えてくれる。
より大きな苦難を乗り切ることができれば、より大きな幸福にたどり着ける。
しかし、乗り越えられなければ、人生のダークサイドに転落するリスクもある。
これは、「努力したものが全員成功するわけではないが、成功者は全て努力してきている」という話しと似ていて、「逆境を乗り越えた人が全員幸福になるわけではないが、幸福な人生を手に入れたひとの多くは逆境を経験している」・・・と言えるかもしれない。
逆境は、乗り越える際に人的資本を強化してくれるし、社会資本も整理してくれる。
逆境を乗り越え、成功を勝ち取ることができた人は、結果としてバランスのとれた良い幸福のポートフォリオを手にすることが可能なのかもしれない。
100人居れば100通りの幸福があるとすれば、セオリー通り、マニュアル通りの幸福な人生など、そもそも存在し得ない。
自分の幸福な人生の地図は自分で作るしかないが、安易に与えられた道を選ぶ人がそのゴールに近づける可能性は極めて低い気がする。
かと言って、自分自身の幸福感の感度やキャパシティーや方向性も分からなければ自分で地図を作ることなど出来るわけもない。
幸福感というものに支配される人間の人生はなかなか難しいものだ。