あなたは死ぬときに、
愛されたことを思い出しますか?
それとも、
愛したことを思いだしますか?
辻仁成のベストセラー恋愛小説『サヨナライツカ』に登場するセリフだ。
劇中で主人公の婚約者が書いていた以下の刹那的な詩がストーリーの核となっている。
【サヨナライツカ】
いつも人はサヨナラを用意して生きなければならない
孤独はもっとも裏切ることのない友人の一人だと思うほうがよい
愛に怯える前に、傘を買っておく必要がある
どんなに愛されても幸福を信じてはならない
どんなに愛しても決して愛しすぎてはならない
愛なんか季節のようなもの
ただ巡って人生を彩りあきさせないだけのもの
愛なんて口にした瞬間、消えてしまう氷のカケラ
サヨナライツカ
永遠の幸福なんてないように 永遠の不幸もない
いつかサヨナラがやってきて、いっかコンニチワがやってくる
人間は死ぬとき、愛されたことを思い出すヒトと 愛したことを思い出すヒトとにわかれる
私はきっと愛したことを思い出す
う~ん、私はいったいどっちだろう?
たぶん、愛されたことも愛したことも思い出すような気がする。
「愛されたこと」と答えているうちはまだ未熟者という事らしい。
さて、この小説は、私的にはなぜか泣けてしまう。
最近改めて映画版を観たが(3回目)、映画でも泣けてしまう。
実際この映画は、興行成績は良かったものの、感想は賛否両論のようだ。
「なんでこんなストーリーで泣けるのかわからない」と言われることも多い。
特に映画版に関しては、その演出と描写、25年の歳月を隔た登場人物たちを同じ役者が老けメイクによって演ずるところの無理感など、評価の分かれるところだが、まだ観ていない人はまず原作の小説を読んでみて欲しい。
婚約している男が奔放な色っぽい女とタイで不倫する話しに過ぎないと言われればそれまでだが、このストーリーの主題は、上記の詩に集約される愛というものの儚さと切なさに集約される。
命を削るような恋愛を経験したことのあるひとならば、実はどこにでもある、そして愚かで、はかなく、切ない、男女の恋愛というもののエッジに触れて涙が出てしまうのではないかと思う。
ひとという愚かな生き物が、恋愛という崇高なものを理解するのは、たぶん寿命が短すぎると感じる。
そして、愛というものに対する女性の潔さは深く、男性は鈍感で浅はかだ。
人生の中で一瞬の恋愛が永遠になるという感覚は、1995年に公開されたクリントイーストウッド監督の映画『マディソン郡の橋』にもやや通じるものがある。
劇場版は、もともと2002年に行定勲監督、坂本龍一の音楽、ワダミエの衣装、中山美穂と大沢たかおの主演で製作される予定だったらしいが、クランクイン直前に行定監督が降板し白紙となった。
その後2008年に、中山美穂主演という形は変えずに映画化されることが発表されたが、監督は韓国人のイ・ジェハン(李宰漢)が務め、2010年に公開された。
代打に起用されたイ・ジェハンは、2005年公開の「私の頭の中の消しゴム」という純愛映画の監督でもある。
「死より切ない別れがある」というキャッチコピーで、若年性アルツハイマーによって恋人を肉体的にではなく、精神的に失っていく描いたこれまた涙無しには観れない切ない映画だ。
ちなみにこの映画の原作は、日本のテレビドラマ『Pure Soul~君が僕を忘れても~』(2001年、読売テレビ制作)だそうだ。
結果として、この映画はイ・ジェハンの監督の美しい映像と中島美嘉の「ALWAYS」という切ない曲の組み合わせによって、私的にはとてもいい映画に仕上がったと思う。
事実、公開2日間で興行収入約1億3000万円を記録し、公開1カ月で観客動員数100万人、興行収入10億円を突破している。
ちなみに、監督の辻仁成と主演の中山美穂が電撃入籍したのが2002年6月、2004年には長男をもうけている。
最初の映画化が流れた原因にはこのあたりのゴタゴタがあったような気がする。
皮肉にも、2014年7月に2人は離婚しており、辻の中性化?によるビジュアルの変化も話題になったが、あれほどラブラブだった2人がそんなことになるなんて、まさに『サヨナライツカ』的カオスの世界といえるだろう・・・。