ひとの人生に関わらない生き方は良いのか? | Mr.Gの気まぐれ投資コラム

Mr.Gの気まぐれ投資コラム

50代グダグダちょい悪おやじMr.Gの趣味と海外投資に関するコラムです。
香港を拠点に活動する個人投資家であり、自称「投資戦略予報士」Mr.Gがお伝えする海外投資の生情報。
ねだるな勝ち取れ、さすれば与えられん!


それを意識しているかどうかは知らないが、「ひとの人生になるべく関わらない」生き方を選んでいるひとは意外と多いのではないだろうか?


「ひとの人生に関わらない」ということは、「他人の人生に興味を待たない」→「積極的に他人とコミュニケーションを図らない」というような一般的な引きこもり的方向に向かうことで→「自分の行動や発言が、他人の人生に影響を及ぼすこと」→「その責任を背負うこと」を避けようとする行動だと思う。


このように「ひとの人生になるべく関わらない」ように生きようとする一見極めてネガティブな姿勢の背景には、実は他人のことを思いやる気持ちや、配慮、優しさが見え隠れする。


思いやるから、迷惑をかけたくない、自分が関わってはいけないと思うのだろう。


「本気で好きだから、好きと言えない。」みたいな感じだ。


私のような世代からすると、「なんで好きなのに言わないの?」的なムズムズしたじれったさを覚える。


好きだという自分の真剣な気持ちを、相手に真剣に伝えることで起こりうる結果が恐ろしいというのは分かる。


しかし、20年後とかに、偶然その人と再会したときに、「どうしてあのときに言ってくれなかったの!?」的な状況が発生しないとも限らない。


こういった消極的な行動を、我々のような図々しい熱血世代が否定することは容易だが、受け入れることは難しい。


特に、営業的な仕事に就いていて、対人関係に消極的な人間が、たとえ偶然であれ成果を上げることは極めて難しいと言わざるを得ない。


人間関係というのは、計算できないし、公式もないので、どうすればどうなるかというのは、常に後になってしか分からない。


かのスティーブ・ジョブズ氏も有名なスタンフォードでのスピーチで言っていたように、未来における自分の運命というのは過去の点と点が結果として繋がってできあがるもので、それは過去を振り返って分かるものの、これから先にある繋がる点は見えない。その見えない運命の点が繋がっていくことを信じて毎日を真剣に生きることしか人間にはできない。


人と人は、どのような形であれ出会ってしまった限りは、それが1つの運命の点の可能性となってしまう。

自分の存在が他人にとって運命の点となる可能性も、その相手が自分にとって運命の点となる可能性も、出会ってしまった限りは、そこに如何に影響を及ぼさないように努力したところで、点である可能性からは逃れられない。


しかし、積極的に多くの点の可能性となる出会いを積極的に求めたからといって、その人やその人と関わった人の運命が良い方向に向かうというものでもない。


結局、なるようにしかならない。


「ひとの人生に関わる」かどうかなど、自分で決められるわけでもないし、なるべく関わらないように努力しようが、なるべく関わるように努力しようが、関わる場合は関わってしまうし、関わらない場合は関わらないというものなのかと思える。


このように考えると、人間関係に対して消極的なタイプの人を、積極的に人間関係が構築できると自負しているひとが、一方的に否定するというのも理不尽なことなのかもしれない。


同時に、「人の人生になるべく関わらないような生き方」を目指すというのも意味の無いことだと言える。


自分が他人や世界にどのような関わりがあるのかなど、所詮人間の決められることではないからだ。


それならば、少なくとも、自分という他人にとって可能性のある運命の点の存在が、少なくとも自分や他人にとって良いものであることを信じてあげて欲しいものだ。