彩龍と極鳳凰 アフターストーリー③生と死そしてキリスト | 魂の約束を生きて新しい調和の地球へ☆レインボーアーティスト たみのともみ

魂の約束を生きて新しい調和の地球へ☆レインボーアーティスト たみのともみ

表現を通して他人軸から魂軸へ変容促し
魂からの圧倒的喜び溢れる人生に✨
波動共鳴映画「アイノオト」監督
「ありえない」方法での映画、舞台創造
見えない世界を表現する絵画
全国一万人以上にアート提供
著書2万部

レインボーアーティストたみのともみです🌈








続きです







極鳳凰にこめた「性」

それはすなわち「生」でもある。

いのちの誕生の表現でもある。






だけど同時に

「生」の裏は

「死」でもある。







ふたつはひとつ。








極鳳凰を描いているときにね

なんというか

「死」のエネルギーを

ものすごく感じていた。







アートは見えない世界と

意図しなくても繋がっていくものだけど

黄泉の国とか

そのへんと繋がってるんじゃないかって







「わたし死ぬんちゃうか」

って思ってたんだよね😂







だから

キャンバスに向き合うのは

1日に1時間くらいが限界で







何時間でも作業できた彩龍とは

そこも違うところだった。







だけれど

極鳳凰の表現として

「死」の描写って

意図して描いてはいなくて






「死」を感じながら描いたけど

表現はできていたのかな?

って思っていたの。






けれど

作品が完成して

会場に置いた写真を見たとき


イエスキリストの

十字架のはりつけに見えたんだよね。






ここに置いてみるまで

気づかなかった。






そして

終わってからいただいた感想の中に




キリストが本当に死に至ったか

たしかめるために

心臓を槍で突いた…と。







それも知らなかった情報でしたが

これを読んではじめて

この胸の部分は







女性器であり

心臓であり

生であり

死だったのだと

思いました。







不思議なんだけどね

作品というのは

わたしが描いてはいるけれど







大きな見えない存在やその意志を

代わりに表現しているような側面があって

表現されたものをみて

わたしが後から気づかされるんだよね。








生は死であり

死は生である。






わたしたちは

死の話題に触れることは

避けようとするし






縁起がよくないとして

あまり語りあうこともなかったり







何よりも

死について

真正面から見ることが

怖いのではないかと思う。






だから

避けてきた。






だけれど

死というものを

その本質を見たときに







わたしは

全く「生」と同じではないのか

と思う。







人は必ず

誰一人残らず「死」を体験する。









誰一人残らず

「生まれる」ことを体験したのと

同じように。







痛みはあるかもしれない。

だけど

生まれるときだって痛かったはずだ。







死というのが

必ず誰もが迎えるのだという

絶対的に変わらないこの事実に







あらためて光を当てて

死を直視したときに

一人一人の「生」が変わる。








死から目をそらすことで

逆に

死への恐怖が増大する。







わたしたちは

わからないものに対して

恐怖を抱くものだから。






そして

その恐怖から

自分を守りたいという思いが

誰かや何かへの攻撃になっていく。







恐怖が

本質を見抜くことを

邪魔してしまう。





死を悪だと

死を敵だと

思うことは







自分の人生が

人間の生が

闘いになってしまう。






それも

絶対に敵わない闘い。










これが

十字架にかかげられた

キリストの姿だとするなら






わたしたちが

ずっと見てきた姿と

違うところがある


それは

心臓の位置。






身体が正面を向いていたら

心臓は右側になる。






だけど

極鳳凰は左側にある。





それは

わたしたちがずっと見てきた

この磔の姿を

反対である背中側から見た姿

だとしたら。






わたしたちが捉えてきた

「死」の反対の側面なのではないか。







「死」が

終わりであると同時に始まりで

達成でもあるなら

死は喜びでもあると思う。







わたしは

イエスキリストという人は

大きな喜びと達成感の中で

この世を旅立ったんではないか

そんな風に感じた。







誰もが体験する「死」を通して

こんなにも人々に

幾世紀にも与え続けた

「死」があるだろうか。






南フランスの

マグダラのマリアが33年間

そこで祈り続けたという洞窟に行ったとき



一歩中に入った瞬間

とてつもない悲しみが溢れてきて

嗚咽するくらい涙が溢れてきた。







なんの悲しみなのかわからなかった。

死の本質を理解しているであろう

マグダラのマリアが

イエスの死をずっと嘆き悲しんでいたとは

思えなかったから。






いま

極鳳凰展を終えて思うのは







もしかしたら

死を持って

イエスが伝えたかった本質が

人々に理解されなかったこと







調和の世界を創るための教えが

反対に対立や争いを生んでいることへの

嘆き悲しみだったのかもしれない。







この極鳳凰は

マグダラのマリアを辿る中から

生まれた作品だけれど






同時に

イエスであり

マリアであり






そして

ふたりの娘の

サラの姿でもあるのかもしれないな。





そして

胸のところをくり抜いたこの形

ヴェシカパイシスとは




原始キリスト教で

キリストの宿るところ

という意味をもつ

このマークのことを表していたんだとか。


これも

極鳳凰展が終わってから

知ったことだった。






わたしが理解していた以上に

この極鳳凰には

いろんな意味が

込められているのかもしれない。