こんにちはビックリマーク松田さおりですドキドキ

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自分史②覚えてないけどありがたい


 

 

 

 

 

私が4歳になろうという頃、神戸市兵庫区にあった父の実家に引っ越しました。

 

三重から車でやってきて、神戸に降り立った時の風景は、なぜか鮮明に残っています。

 

そこは、今までの田舎とは180度違う、まさに昭和の下町でした。

 

地元の小さな中華料理屋さんの隣に家はありました。

 

戦前に建てられたという、木造土壁の家。

 

玄関の扉は引き戸一枚で、家の前の通りから地続きの土間がありました。

土間を奥に進むと台所があり、井戸があり、そのまた奥には和式トイレが二つと、男性用の小便器が一つありました。

 

なんでこんなにトイレが充実してるんだろう?

その謎は後ほど…!

 

一階には土間沿いに部屋が2つ、突きあたりにもう1部屋ありました。

どの部屋に上がるにも靴を履いて移動です。

 

二階には2部屋あり、そこが私たち家族の寝室になりました。

 

天井が屋根のかたちに沿って傾斜になっていて、子供の私でも頭を打つほどの低いところがあり、変わったつくりだな~と思っていたら、

実はそこは”二階の部屋”ではなく、”屋根裏の納戸”だったのでした!笑

 

ただ、それまで社宅で暮らしていた私にとっては、家の中に階段があり、2階がある、というだけですごく新鮮で、とにかく嬉しかったのを覚えています。

 

 

ちなみに、一階の突きあたりの部屋には松本さんというおばあちゃんが、

家の裏通路から上がる階段の上にも部屋があり、そこには藤岡さんという家族が住んでいました。

トイレと台所は共同でした。(だからたくさんあった!)

 

子供心に、てっきり親戚の人たちだと思っていたら、全くの赤の他人でした!笑

 

要は、その家は借家で、大半は私の家族が借りていたので、表の表札はうちの名前になっていましたが、

各部屋ごとに借りて住める、という昔の借家だったのです。

戦時中には、ひと部屋ごとに別々の家族が身を寄せ合って住んでいたそうです。

 

…すごいですよね?

 

その時は何とも思ってませんでしたが、

今思えばこんな下町暮らし、私の年齢で経験できたのは本当に貴重だったと思います。

 

お風呂はというと当然なし。

毎日銭湯通いでした。♨

そのあたりでは、お風呂があるおうちは有名になるくらい、みんな銭湯通いでした。

 

銭湯帰りに買う、一皿50円のたこ焼きがおいしかったな~音譜

 

夕方になったら、家々から醤油なんかのいい匂いがしてきて、

近所のおばちゃんが

『おから、ようさん炊いたからおすそ分け~』とか言いながら普通に家に入ってきて、

『ここ置いとくからおばあちゃんに言うといてな~』と、台所におからの入ったお皿を置いて行く、というようなことも日常茶飯事でした。

 

まさに『昭和』の風景ですよね。

 

 

家には巨大なゴキブリだけでなく、ネズミにイタチまで同居していたけど、

子供には衛生も不便も関係なく…照れ

(今は無理です…)

なぜかよく部屋の床に押しピンが落ちていて、足の裏に刺さってイタタ…なんてこともしょっちゅうでしたあせる

 

でも、おじいちゃんやおばあちゃんや、近所のおじさんや同居の人たちに囲まれて、

あったかい雰囲気の下町暮らしが大好きになりました。

 

そんな中でのびのびと育っていくわけですが、6歳になる年、年長さんの一年間だけ保育園に入ることになりました。

小学校に入る前に、少しでも友達を作ったり、外の世界に慣らしておいてあげたい、という親の思いやりからだったとは思うのですが…。

 

そこで、下町の本当の洗礼を受けることになるのです叫び

 

子供といっても侮れない。

生後数か月から共に育ってきた子供たちのナワバリの中に、後から加わるということがどういうことなのか…。

身をもって知りました。

 

いったい何があったのか、

どうやって切り抜けたのか。

 

それは次回にお話ししたいと思います。

 

 

続く。

 


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自分史④ 保育園児はたくましい