こんにちは松田さおりです
これから始める仕事のために、
自分史ブログ書いてます ✏
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私が4歳になろうという頃、神戸市兵庫区にあった父の実家に引っ越しました。
三重から車でやってきて、神戸に降り立った時の風景は、なぜか鮮明に残っています。
そこは、今までの田舎とは180度違う、まさに昭和の下町でした。
地元の小さな中華料理屋さんの隣に家はありました。
戦前に建てられたという、木造土壁の家。
玄関の扉は引き戸一枚で、家の前の通りから地続きの土間がありました。
土間を奥に進むと台所があり、井戸があり、そのまた奥には和式トイレが二つと、男性用の小便器が一つありました。
なんでこんなにトイレが充実してるんだろう?
その謎は後ほど…!
一階には土間沿いに部屋が2つ、突きあたりにもう1部屋ありました。
どの部屋に上がるにも靴を履いて移動です。
二階には2部屋あり、そこが私たち家族の寝室になりました。
天井が屋根のかたちに沿って傾斜になっていて、子供の私でも頭を打つほどの低いところがあり、変わったつくりだな~と思っていたら、
実はそこは”二階の部屋”ではなく、”屋根裏の納戸”だったのでした!笑
ただ、それまで社宅で暮らしていた私にとっては、家の中に階段があり、2階がある、というだけですごく新鮮で、とにかく嬉しかったのを覚えています。
ちなみに、一階の突きあたりの部屋には松本さんというおばあちゃんが、
家の裏通路から上がる階段の上にも部屋があり、そこには藤岡さんという家族が住んでいました。
トイレと台所は共同でした。(だからたくさんあった!)
子供心に、てっきり親戚の人たちだと思っていたら、全くの赤の他人でした!笑
要は、その家は借家で、大半は私の家族が借りていたので、表の表札はうちの名前になっていましたが、
各部屋ごとに借りて住める、という昔の借家だったのです。
戦時中には、ひと部屋ごとに別々の家族が身を寄せ合って住んでいたそうです。
…すごいですよね?
その時は何とも思ってませんでしたが、
今思えばこんな下町暮らし、私の年齢で経験できたのは本当に貴重だったと思います。
お風呂はというと当然なし。
毎日銭湯通いでした。♨
そのあたりでは、お風呂があるおうちは有名になるくらい、みんな銭湯通いでした。
銭湯帰りに買う、一皿50円のたこ焼きがおいしかったな~
夕方になったら、家々から醤油なんかのいい匂いがしてきて、
近所のおばちゃんが
『おから、ようさん炊いたからおすそ分け~』とか言いながら普通に家に入ってきて、
『ここ置いとくからおばあちゃんに言うといてな~』と、台所におからの入ったお皿を置いて行く、というようなことも日常茶飯事でした。
まさに『昭和』の風景ですよね。
家には巨大なゴキブリだけでなく、ネズミにイタチまで同居していたけど、
子供には衛生も不便も関係なく…
(今は無理です…)
なぜかよく部屋の床に押しピンが落ちていて、足の裏に刺さってイタタ…なんてこともしょっちゅうでした
でも、おじいちゃんやおばあちゃんや、近所のおじさんや同居の人たちに囲まれて、
あったかい雰囲気の下町暮らしが大好きになりました。
そんな中でのびのびと育っていくわけですが、6歳になる年、年長さんの一年間だけ保育園に入ることになりました。
小学校に入る前に、少しでも友達を作ったり、外の世界に慣らしておいてあげたい、という親の思いやりからだったとは思うのですが…。
そこで、下町の本当の洗礼を受けることになるのです
子供といっても侮れない。
生後数か月から共に育ってきた子供たちのナワバリの中に、後から加わるということがどういうことなのか…。
身をもって知りました。
いったい何があったのか、
どうやって切り抜けたのか。
それは次回にお話ししたいと思います。
続く。
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