生きる     谷川俊太郎


生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ日がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎてゆくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ



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<carpe diem>
ラテン語のことわざで
日本語にすると「この日を捉えよ」

過去も未来もひそんでいる、速いだけでなく限りなく深い
「いま」

今を生きるということ
そのあったかさを今一度かみしめる
実家でのごろごろ休日。

そういえば根暗発言がそのままになっていたので
少しの心境の変化を忘れずに書いておこう。

業務と割り切って仕事をするのは
やっぱり、私の仕事として絶対に×。

だって、その人の一生に数回の大事なお産。
だって、その人にとって、とてもリアルな治療という場。

真摯に受け止めて、
わからないことは自分でわかるように補足する努力をしなければだめよね。
だって、私たちは、1年目といえど
お金をもらっているプロなのだから。

患者さんは大好き。
弱い自分が嫌なだけ。
弱い自分を隠すために、いろんな口実を並べ立てていた。

甘ったれるなサイズ6。
JUST DO IT

今は、そのように思っています。

友達が出ている舞台を見に行ってきた。

演劇や、ミュージカルもそうだけど
生身の人間の息づかい、気迫、汗、気持ち
そういうものがびんびんと伝わってくる。
特に、小さな劇場だったので
それはもうド迫力なわけで。

そして、夢見る少女じゃいられない今の自分たちの年齢。

これは、職業なのかしら、趣味なのか。
生活はどうなっているんだろう
バイトとかしているのかな

勝手にいろいろとひとりひとりの背景まで考えてしまう
それはとてもリアルな感情で。

そんなまぜこぜを含めて
とっても生き生きと楽しそうに芝居をしている人たちは
とても気持ちがよかった。
友人票1票。

でも、中に一人、すごく気になる人がいた。
たぶん一番ボスみたいな人。
その人の演技はとても引き込まれた。迫力が違う。
この人はプロ、なのかな。
プロとアマチュアの違いってなんだろう。
意気込み、でしょうか、責任、でしょうか。

全体的に、「部活」に近いように感じた。
ひとつのものに向かってみんなで力を合わせる。
でも、「部活」じゃない。
「部活」は終わりがある。期限がある。
でも、この空間には?

私の考えた結論、この人たちは「今」を生きている。
そんな先々のことなんて考えたって仕方ない。
じゃあ、私は?
…トントンと、石橋をたたいて渡る音が聞こえてくるようだ。

ともかく、いろんな人の「生き様」を感じてとても刺激的だった。
サブカルチュアルな感じには
こういう「生き様感」が強い。
そこが生々しくて小気味良いんだ。

サブカルチュアルに憧れるのに
現実的なことばかり考えてしまう自分を思い知った。

ちっさくまとまった大人になっていやしまいか!
「いつだって崖っぷち!」と叫んでいたあの人たちのきらきらした目を
忘れないでいたいものだ。

また行こうー。

「人」がいちばん、おもしろい。

でも、「人」がいちばん、こわい。


人を相手の仕事は

だから、とても難しい。




まっすぐな瞳で見つめられたとき、

私はその瞳のまっすぐさに耐えられず、

目をそらした。

二回も。


だって、それはもう、自分の範疇外で

私には本当にわからなかったから。


誰にもわからないから答えられない。

下手なことは答えられないから、かわす。

気持ちは受け止めるけど、答えはしない。

みんなで行動は統一しようという話になっていた。

「医師からはなんて聞いていますか」


やっていることは間違っていないのだけど

でも、私のこころの微妙なゆらぎ、迷いを

まっすぐな瞳は完全に読み切って

だから、その自信のなさを見透かして

「怒り」という感情をぶつけてきたんだと思う。


お腹にペットボトルの水を力いっぱい投げつけられた。


人からあんなに本当の「怒り」をぶつけられことなんて

初めてで

でも、その身体の痛みよりも

目をそらした自分が情けなくて

彼女の気持ちがこころに刺さって、痛い。


その痛みは

いつまでも続いていて、

私のなかで大きな黒いもやもやのような姿で

ずっとゆらゆら動いている。


内容がよくわかっていないのに

その人にとってはリアルで本気の「治療」に

毎日関わっていかなければいけないという現実。

恐怖だ。


行きたくないな。

行きたくない。

行きたくない。


申しわけないがもう少しだけ落ち着くまで

感情を麻痺させて

淡々と「仕事」をさせてもらおう。


だめかもしれないけど、ちょっとそうでもしないとしんどい。

ごめんなさい。


インターネットが突如として使えなくなってしまい

携帯もスマートでないもので

ネットなしの生活が数日続いていた。


その間

家と仕事場との往復

5分間の移動距離

それが私の世界になってしまったような気がして

とってもとっても閉ざされた気持ちになった。


べつにネットがあったからといって

毎日何をしているわけでもないのに

いざないとなると

つながりが切れてしまった

無人島にでも来たかのような気持ちになる。


今、テレビでソーシャルネットワークへの依存症について

よく取り上げられている。


私は決してそこまではいかないけれど

でも、人に会えなくても

自分の考えを誰かに伝えたい

自分のアウトプットしたものを

誰かがみてくれている、ということが

こんなに幸せなことなのだということを

失って初めて、改めて感じる良い機会となりました。



ふたを開けてみれば

まさかのネット料金未払いによる強制切断。

おそろしい…

お金を払ったらものの30分で

無人島から脱出できましたとさ。



「つながり」ってなんだろう。

さみしさを紛らわす錯覚?

スマートな携帯を使うのは

そうしていつでも誰かと繋がっていたいから?

自分はひとりじゃないっていう実感を持ちたいから?


そんなツールがあったら

気持ちが弱くなった時につい依存してしまいそうだ。



お気に入りのベンチで夜風に当たりながら過ごす時間が長くなってきた。

寒いから風邪をひかないようにしないと。ね。


久しぶりに文章をかくと

なんだかうまくかけない。


でも、ハッピーだわ。

ただいま。


初めて、人が亡くなる場面を目の当たりにした。



今にも目を開きそうなのにもう開かなくて

みるみる冷たくなっていって固くなっていって

血の通っているという状態がいかに生命力に溢れていたかを思い知る。


肉体はいれものにすぎなくて

生命が途絶えた瞬間、そこにその方の存在はなくなる――


そういう考え方を

前になにかの本で読んだことがある。

そのときはしっくりこなかったけど

こうしてご遺体と向き合うと

本当にそうなのかもしれないと思えてくる。

むしろ、そう思いたい。


フランダースの犬のネロみたいに

いつものおだやかな笑顔で

空に昇っていっているその方の魂があって

ここにいるのはただのぬけがらの肉体。


結構ショックが大きくて

そんな中でテキパキと働かなくてはいけないという自分の職業を、

なんだか異様にさえ思えた。


でも、お悔みの瞬間に、先輩みんなが集まって涙を流している姿を見て

ああ、悲しいという感情を別に捨てなくてもいいんだとすごくホッとした。


ただ、いつまでも引きずらず、すぐに切り替えてお別れの準備にうつる。

他にも沢山いる患者さんに

いつもどおりの元気な顔で接する。



結構、こころが忙しい。

とっても、とっても、疲れた。



そんなこんなで

仕事中は気が張っていてなんとかなったが

家に帰ってきたらぽっかりとものすごい空虚感、無力感、無常感。

そうしたら

タイムリーに糸井さんがこんなことを言っていた。



「キャーだのヒャーだのモジモジだので、
 じぶんやら他人やらの助けになることはございません。
 

 こころに長靴はいてさ、軍手もはめちゃってさ、
 ずんずんと現実に踏み込んでいくようなやり方に、
 いまのぼくは、自然な興味を抱いています。
 

 そこで感じることのなかで、
 鍛えられた「感受性」が育ってくると思うんです。
 葬式でもっとも泣いているのは、たいていただの他人。」


こころに長靴はいて、軍手もはめて、ヘルメットまでかぶって

強く、生きていかないといけないのかな。

人のために働くというのは、そういうことか。


でもそこで、こころを冷たい「無」の状態にして切り離すのではなくて

そんな中でも苦しくても「感じる」ことから逃げないで、

こころを鍛えるんだ。



生きるということは、大変なことだなあ。



とりあえず、

今日は、なにも忘れてゆっくり休もう。



大好きなおばあちゃんのご冥福をお祈りします。



水面に浮かんで揺れる葉っぱ

この動きを数式にするのは非常に難しい。


この世界は

たとえば

大気の流れにしても

株式市場にしても

一見複雑な現象ばかりで

まさにカオス(混沌)。


しかしそこには

ある一定の美しい規則性がある。


きみは、カオスのことを勉強した方がいい。


                 福井謙一(ノーベル化学賞受賞)



「治安の悪い町のカオスの中に

想像もしなかった秩序がある。


予想もつかないところにこそ

互いに組み合わせると何か新しいことが生み出せる人たちがいる。


居心地が良いと学びは止まる。

違和感のある環境の方が学びは起きる。


お金が信用できない今、

ネットワークこそが自分の大きな財産になる。


ひとりひとりがしなやかに生き抜く上で大事なのは

子どものように人と容易につながり、学び、遊び、空想する。

子どもの要素を持ち続けることではないか。」


マサチューセッツ工科大学メディアラボの所長となった伊藤穣一さんのことばだ。



この社会で「うまくやっていく」というのは

その場に適応すること。


仕事を覚えることはもちろん大事で

でも「なんでこうなんだろう」と感じた違和感を

「こういうものなんだ」とならしてしまわずに

きちんと自分のなかで違和感を持ち続けるように意識することは

すごく大切なのだと思う。


そして、なぜそうなんだろう、と掘り下げる。



そこに私なりのイノベーションが生まれる。



久しぶりに、こんなに目のキラキラした大人に会ったぞ。



広い世界を見るのだ。



昔、なかよしで

「ようこそほほえみ寮へ」とかいうマンガが連載されていた時があった。


りぼん派の私は

継続的に読んでいたわけではないのだが

女の子ばっかりで

すぐ近くにいつも仲間がいて

生活という、とても個人的なものを共有する

「寮」というとても不思議な空間に

ぼんやりと憧れを持ったのを覚えている。





そして今、28歳にして

初めて「寮」というものに住んでいる。




寮といっても

借り上げマンションだから

プライバシーは保てるし

人との距離感も保てるし

極めて一人暮らしに近いのだけど


でも、やっぱりすぐ近くに仲間がいるというは

すごく心強いと

最近実感している。


うちの寮には

同期は私以外2人しかいなくて

しかも、年も近くて、2人とも私よりお姉さん。


仕事でしんどいことがあったときに

メールしてみたら「うちおいでー」て言ってお話聞いてくれたり

21時くらいからでもちょっとお茶したりとか

おかず持ちあってごはんしたり

自転車あるからいるかなと思ってメールくれたりとか。


こんなに近くに頼れる人がいるなんて初めてで

状況も似ているから慰め合ったりなんかして

元気をたくさんもらっている。

なにより、家を出て1分で人に会えるという気軽さがいい。

お互いに干渉しすぎない丁度良い距離感もいい。


大学生の時と違って

今ってすごく微妙な年齢で

今の私のこの環境って

ものすごく微妙なバランスで成り立っているものだと思う。


寮っていつまでもいるものではないし

同期も私も

結婚したり家庭を持ったりして

いつこの寮を出ていくかわからない。


きっと、

今私が寮の同期に感じている温かさ、ぬくもりを

今度は自分の家庭に対して感じていくようになっていくのかななんて

想像はするんだ。


だけど

同じように路線変更して職業を変えて

1からものごとを始めた今の心境を共有できるのは

やっぱり同じ環境の人だったりするわけで。


少なくとも

私は今のこの自分の環境を

とてもとても幸せだと思っているということを

ここに記しておこう。


いつまでも続くものではないはかなさと

今あるありがたさを噛みしめて。



こんな時間に

衝動にかられて

イカをさばいてみた。


初めてのイカだったけど

上手にできたのがうれしくて

これまたこんな時間に

ごはん1杯でおいしくいただいてしまった。


こういう瞬間が

最近の私の

とっても幸せな時間。



今日はおやすみだったので

荒川河川敷を走った。

途中で

ここはハワイかと思うくらい素敵な芝生の広い公園を見つけてしまって

走った後に芝生の木陰でお昼寝をした。



久しぶりに、服の汚れを気にせず地べたに寝っころがった気がする。



地べたから見る空。

地べたから見上げる木。


下からみると

大勢のアリが上から下からせわしなく動いているのが良く見える。

このアリはどこからきてどこへ行くのか

じっと目を凝らしてみても

途中で見失ってしまって、だんだんどうでもよくなってくる。

とにかく、今を一生懸命生きているのねと

つい顔がほころんで、そのまま目を閉じる。



自己実現の形はいろいろある。



私にとっては、

自分自身の力でなにかができたという実感や

自分の五感でなにかを感じて、それを通して考えること。

そして、それを誰かと共有すること。

そういうことを積み重ねていくうちに自分が少しずつ変容していくこと。


そういう過程ひとつひとつが私にとっての自己実現なのかもしれない。

自分でも驚くくらい

めちゃくちゃささやかだけど。




大きすぎる目標をかかげたものだから

いまさらながら、帳尻合わせをせこせこ始めることにした。


今の現状はというと。

自転車3こぎで息切れし

階段5段でもう休憩をはさむ


いつからこんなへたれになってしまったんだー。


暑くてとろけそうで

とても外に出たくない日々だったのが

「ナイフで切ったように夏が終わった」ものだから

重すぎる腰を、ようやく上げることができた。

日が迫ってきたしね。

髪型を変えたのもひとつのきっかけ。



そんなわけで、

久しぶりにランニングを始めることにした。



そもそも

スタート地点が新しい町だもんで

いろんな知らないところに行けちゃうから結構たのしい。


おとついは、夢の島、有明まわって豊洲までの10キロコース。

空気汚いし信号だらけだが

こんなとこに自分の足で来れちゃうことに

なんだか新鮮、ほくほく。


今日はスカイツリーのふもとまで行って帰ってきて6キロ。

これはなかなかお手頃で気に入った!


いかんせん

方向音痴のわたしは

走っているうちに方向が全然わからなくなってしまうので

スカイツリーを目指して

とりあえずそっちの方向へ走る。


道はいろいろあるけど

とりあえず目標を決めて適当に走っているうちに

そこにちょっとずつ近づいていって

気づいたらすぐ目の前にあったりして。


そんな小さな自己実現でも

ちょっとした満足感を味わうことができるんだなと

なんだか改めて思った。



今日も

自己効力感の積立貯金を

チャリンとね。