ああ。

なんか違う。


年齢ばかり重ねている今。

私はだいぶ「大人」というくくりに入っているけれど

大人ぶって大人ぶったことをしてみても

本当の私は全然大人じゃなくて

そのギャップが

心をぎしぎしきしませる。


さびしさを紛らわせるために

一時の夢を見たって

結局残るのはむなしさだけだ。


吐きそうに気持ち悪くなって

悲しくてちっぽけで

自分のばかさかげんにうんざりする。


だいすきな人に

心をわしゃわしゃ洗ってもらって目が覚めた。

自分を大切にしなければ。



仕事も、これから2か月ほど鬼が不在になる。

鬼の居ぬ間に、鬼がびっくりするくらい成長してやるんだから。


ずっとさぼってた運動も、また始める。

そう、私らしい姿を取り戻すのだ。



100万回生きたねこは

自分のことが大好きで自分のことにしか興味がなかったうちは

どんな経験をしても満足できず

100万回死んでも何度も何度も生き返った。


でも、

自分以外の誰かを自分以上に大切に思ったとき

初めて人のために泣いて

そして、もう二度と生き返らなかった。


自分のことが大好きな人は

とても魅力的だけど

そこに他の人は映らない。

自分以外の誰かを大事にすることに気付いて初めて

人間らしい人生。


そういう人の方がよっぽど素敵。

自分自身についてもしかり。


まとまらないが、

とりあえず、今はとっても前向き。

がんばろ。


世の中には
背中に羽が生えている人がいると思う。

私は、そういう人に無条件に惹かれてしまう。

自由さ、力強さ、眩しさ、
自分の好きなことに向けるパワー、情熱、ひたむきさ
なによりも、溢れるエネルギーにキラキラしているから。

その魅力的な羽を持った人を手に入れたのは選ばれた人で、

すごく羨ましいと思う反面

羽ばたくその実体を留めておくことなんて

できないんじゃないかとも思う。


現に、足枷を付けられたその人は羽ばたきたくても羽ばたけず、

息苦しそうにじたばたしていた。
きっとそのうちどこかへ飛んでくんだろう。


それでも、

自分が所有しているという特権。

とっても羨ましいとも思うけれど

でも、私にはできない。


なぜなら、私自身は地面から足を離すことを

とっても恐れているから。

だからこそ、空を飛ぶことを憧れる。


だから私は、羽を持ったその人と時々会って

夢を見させてもらって、パワーを分けてもらって

自分のくそまじめな人生に

ちょこっとだけ自由さというスパイスを利かせて

私の性格上、曲げることのできない現実的な人生を

今後もおくっていくのだと思う。

Pain is inevitable.

Suffering is optional.


「痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第)」


たとえば走っていて「ああ、きつい、もう駄目だ」と思ったとして、

「きつい」というのは避けようのない事実だが、

「もう駄目」かどうかはあくまで本人の裁量に委ねられている。

                           (村上春樹)



風邪をひいて本気で一度休もうと思ったが

その日は絶対に休めない日で

拝みながら薬を飲んで

頭の中で治れ治れと念じながら眠りについた。

結局治りなんかしないけど

仕事中は息を止めてせきをこらえて

おかま声でなんとか乗り切った1週間。


よくがんばったな。


明日はご褒美で楽しい時間を過ごしてこよう。

仕事があるからこそ、休みがよりハッピー。

しんどいからこそ、給料がでるとほくほくする。

そういう意味ではある意味充実。


いざ、非日常じゃあにぃへ。


それにしても

カビってどうしてあんなにきもちわるいんでしょう。


大好きなゴーヤ

だがしかしあいつは

カビが容易に生える率はんぱない。


というのも

私がゴーヤの調理方法をゴーヤチャンプルーしか知らないから

つぶしがきかずもてあましているという

内的要因も大いにあるのだが。


小学生のときかなんかに

夏休みの自由研究で

カビの研究をした自分の気がしれない。

パンにバターやマヨネーズを塗って

毎日カビの生える様子を写真に撮って

わいきゃい言っていたような。


のんきなこどもや。



今週は魔の5日勤だから

休みの日に大量に食料を買い込んで

5日間不自由しないように保存調理をたくさんした。


カビをはやさないように

発酵女子として

上手に保存すべく奮闘しているわけなのです。




今日で東日本大震災から1年半。



当時は

あんなに心を痛めていたのに

今の私は自分の毎日にいっぱいいっぱいで

自分以外のことに目が向かない状況だ。


いつでも被災地へ飛んで行けた学生の頃とは、

まるで遠い世界にいるような心持ちの自分に気づく。

恥ずかしながら、完全に他人事になっていた。


糸井さんはこう言っていた。


震災当時

自分にできることはなんだろうと、みんなが考えていた。

自分にできるカタチを、みんなが考えていた。

なにもできることがないと、嘆いていた。


今こそみんながすべきことは、その時の気持ちを忘れないこと。

今一度、自分にできるカタチを、真剣に考えることを

是非してほしいと。


当時、

自分にできることを

カタチにしやすい状況にいた私はある意味とてもストレスフリーだったと思う。

パッションを表現しやすい環境と自由と余裕があった。


今は…。


今の私にできること。

それは、テレビで見る被災地の今に

真摯に目を向けること。

心を傾けること。

寄り添うこと。


今はそのぐらいしかできないけれど

1年半という区切り目をもって

自分を省みるよい機会にしたいと思う。


おしまい。

だめだ、頭の中が冴え冴えで

このままじゃ眠れない。


こんなときは頭を整理。


さっきのコミュニケーションについて。


休みの日に会いたくなる大好きな人たちは

気を使わなくてもよい、安心できる人。

根底にあるのが、私のことを理解してくれるし

理解しようとしてくれている、ということ。

ここが重要。


だから、私のコミュニケーション能力がつたなくても

一生懸命歩み寄ってきてくれるわけだ。

私はそのやさしさに思う存分甘えている。


でも、

職場の人は、

その根底はないものと考えた方が良い。


へたなりに、いかにわかりやすく伝えるか。

大事なことをピックアップして話す必要がある。

あとは、この一言を言ったら

どう捉えられる可能性があるか、まで

言う前に一呼吸置いて、

一度シミュレーションしてから言わないといけない。

私の微妙な心の動きなんて、読み取ってもらえないのだから。

あるのは、私の発したその一言のみ。


これは、訓練あるのみ。


嘆いているより、よりよい明日のために

自己研さんすべし。

こう考えると、理解しようとしてくれるお友達は

本当にやさしいなあ。

ありがてえ。


おやすみなさい。


コミュニケーションで難しいなあ。


そういうつもりで言ったのではないひとことが

誇張されて伝わって

へんな風に上の人に伝わってしまう。


口は災いのもととは、まさにこのこと。

へたなことを言うよりはなんにも言わない方がまし。

ああ、肩がこる。

みんなきらい。


あともうひとつ。

会いたかった人と3カ月ぶりくらいにばったり会った時。

とっても会いたかったのに

ついしらんぷりしてしまう自分。

挨拶くらいすりゃよかったな。

マスクの中で

微妙にもごもごしていた姿はポーカーフェイスで上手に隠して。

隠す必要があったのかと、あとで自問自答。

なにやってんだか。


なんでこんなに

コミュニケーションが苦手な人になってしまったのだろう。


というか、

思い返せば

これが私の本来の姿なのだけど。

中学生くらいからずっとそうだ。


患者さんとか、初対面の人とか

外向きの対人関係は結構得意。

どんどん興味も湧くし、話していて楽しい。


ただ、職場の同僚とか、数回だけ会った知人とか

そういう内向きの対人関係は

本当に苦手。

あと、からかわれた時とかも

どう対応したらよいのかわからずつまらないリアクションしかとれない。


もう少し、社会で生きていく上での

世渡りのうまさとか調子のよさとか

身につけていかないといけないのかな。

少しずつね。。


そうしないと、社会のつまはじきものだわ。

つかれるなあ。


だからこそ

休みの日は全く気を使わない人と会いたいと思うわけです。


スペシャルな週末まで

あと4日。

昨日、大好きなお友達の結婚式の映像の中に

新婦から両親へ

感謝の気持ちを込めたビデオメッセージがあった。


それは

大橋卓弥の「ありがとう」という音楽に乗せて

彼女がちいさいときに両親が撮ってくれた

8ミリビデオの映像を流すというもの。


その中に

彼女が産まれたときに

病院で撮った映像があった。


両親の愛でいっぱいにつつまれた

産まれたばかりのまるまるとした赤ちゃん。


こんなに小さかった赤ちゃんが

こんなに大きくなって素敵な女性になって結婚していくのだなあと

なんだかしみじみと思ってしまった。


そして、その画は私が今毎日目にしている光景。


お母さんお父さん

おじいちゃんおばあちゃんが

目を細めながら

この世に授かったばかりのいのちを

大事に大事に愛でている姿。


そんな尊い瞬間に自分は立ち会っているのだなあということを

改めて感じて、とてもうれしかった。


自分が今積んでいるレンガは

ゆくゆくは大聖堂になる一部なのだと思うということは

こういうことなのかもしれないなと

少しだけ思えた。


やっぱり、仕事以外の人と会うのはとっても大切だな。


明日から、

またはじまる。

がんばろ。

僕らならできるって思いながら闘って

新しい未来をイメージすればいい


あの虹をわたってまだ見ぬその先へ

自分を信じて 始まったばかりさ


無理して我慢して生きてても

明日はやってくるけど 笑えない


誰かと比べる必要なんてない

きみはきみのままでいいんだよ



曲がりくねった道だって

ゴールにつながってるって

そう信じながらスタートすればいい


過去の涙だって笑い飛ばせるくらい

輝く未来のために進もう


転んだってまた立ち上がればいい

小さな勇気でこの道も変わるさ


いつか花を咲かせる日まで

胸に抱いた夢を信じて





陳腐かもしれないが、

こういう歌詞をとにかくエンドレスで聞いて

自分をマインドコントロールしている。


そして、

そうか、そうだよね、わたしならできるよねって

一生懸命自分を鼓舞している。


一生懸命やっているつもりでも

結果はなかなかついてこなくて

人から呆れられてため息ばっかりつかれて

悔しくて情けなくて

もういやだな。


夢なんて別にないし、そういうキラキラした漠然とした言葉は

なんだか吐き気がする。


あるのは現実だ。


今の現状を打開する。

ただ、それだけ。



たった今までそう思っていたのだが。



ふと思い出した

よく聞くレンガ積みの人の話。


レンガを積んでいる人に対して

「あなたは今なにをしているのですか?」と聞くと


「命令されているからレンガを積んでいるんです」と答えた人


「レンガを一つ積むと10セントもらえるから、生活のためにレンガを積んでいるんです」と答えた人


「レンガを積んで大聖堂を作っているんです。

 ここで多くの人が祝福を受け、悲しみを払い、

 多くの人が救われるのです」と目を輝かせながら答えた人。


10年後

一人目の職人は、相変わらず愚痴をこぼしながらレンガを積んでいた。

二人目の職人は、もっと賃金のいい仕事があったと言って、

賃金は良いけれども危険な教会の屋根の上の仕事に就いていた。

三人目の職人は、知識や技術を積み、

信頼されていたので現場監督として施工を任され、

多くの職人を育て教える立場になっていた。



今の自分は、一体どれに当たるのか?

さすがに1ではないが、極めて2に近い状態かもしれないと

はたと気付いた。

少なくとも3では絶対にない。


勉強しているのも、患者さんのためというよりは

怒られないため。

インシデントを起こさないため。

日々をやりすごすため。


…だよなあ。


昨日、また失敗をしてしまって

いっぱい怒られて凹んで

最後に患者さんに謝りにいったら

すごい笑顔で「別にいいんですよ~」なんて言ってくれて

それが一番こたえた。


まだ、大聖堂、とまで大それたことはいえないが

もう少し「業務」から「患者さんを看る」ようにしていけば

ぶつぎりの知識をつなげていけるのかな。


なんにしろ、レンガを安全に積むことが大前提だから

きちんと意味を考えながら

ひとつひとつのレンガを確実に積んでいくことにするか。



と、書きながら少し自己完結、クールダウン。


よかった。

「自己肯定感のうすいこどもが

 肯定してあげられる要素を自分で探して

 積立貯金してきた」



糸井さんが自分自身のことをこう表現していた。



糸井さんからこういうネガティブなことばを聴くことはすごく意外で

でも、私自身にすごくしっくりいくことばで

そして、すごくジーンとした。


手編みのセーターから感じるのは、

自分は大事にされているな、という感覚。


まばらだったり、でこぼこしてたり、

揃ってない、おんなじ目がひとつもない

そのあいまいさが

人のつくるものの、心臓がどっくんどっくんしている感じ。


自分がそういうものとして、

人に大事にされてもいいんだ。

お前も俺も肯定されている。

肯定されていいんだ。

肯定感のなかで、苦しいことをしのいでいったり

だめなことを直していったり

もっと欲をかいて、前へでたり。



なるほどなあ。

そういう目でものごとを見ているから

糸井さんの紡ぐことばはあったかいんだ。

私の心に沁みいるんだ。


広告、という華やかな世界から退いて

彼が今やっていることは

そういうあったかい貯金を自分自身にしてあげていること。

人にも分け与えてくれていること。


こんなにだめな私も認めてくれる。

そんな人がいたらどんなにか世界はキラキラしてみえるんだろうな。



「荒地で思うのは絶望のことではない。

 荒地に絶望という名前をつけるなんておもしろくもない。


 ここに花を咲かせて 

 かわいいを見つけた目


 ここで生き抜いて

 かっこいいを教えてくれた背中


 時間のなかに人たちが編まれる 」

                  

                       糸井重里  






最近、誰かに会うときは“おめかし”をするようにしている。


おしゃれと“おめかし”は私的にはちょっと違う気がしている。

おしゃれは実際にお洒落じゃないといけない(?)という

不思議な強迫観念があるけれど、


“おめかし”は、なんていうか

もうちょっと無邪気な感じというか

おでかけすることへのウキウキした気持ちが表れているような気がする。


仕事に行くのとは違う

おでかけ。


前はお友達とも沢山会えたから

別にそこまでめかしこむような意識もなかったのだが

今は

その約束が楽しみで

ウキウキおめかし。

新宿ひとつ行くのでも

前は10分で行けたけど今は30分もかかるから

ちょっとおでかけ、ウキウキおめかし。


そんな気持ちが格好に表れているような気がする。


特に、今は仕事中に

髪型やら格好やら色々と制限が多いし

実際余裕もかけらもないから

OFFになってなんの制限もない解き放たれた自由感。


これが余計、私の“おめかし”意欲を湧きたてているのかもしれない。


やっぱり、人間

制限があってこそ自由の素晴らしさを実感するのだなあ。


今日も“おめかし”して

ちょっと街まででかけてきましょう。


るん