文章をあれするための、あれ。 -21ページ目

文章をあれするための、あれ。

日々気づいたこと、考えること、知りたいこと、など。

2014年初お風呂は手に紫色のボトルを持って、ワクワクした気持ちで入った。

友だちがNY土産に
ビクトリアズシークレットの香りセットをくれたのだ。
通称ビクシーと呼ばれるその店は
どうやらとても有名で今もっともおキャンなランジェリー&コスメショップのようだ。

ボディーウォッシュ、ボディーミスト、ボディークリームをもらい、
これで私もおキャンになれる!
いや、おキャンなんてもんじゃない。
大人の色香漂よう女性になれる!
2014年最初の入浴はビクシーのボディーウォッシュでキメよう!

そんな気持ちで浴室へと足を運んだ。

体を洗うのは順番で言うと3番目なので
とりあえずボディーウォッシュは置いて、
1番シャンプーと2番リンスをすませた。

いよいよ、3番体を洗うのターンになったのだが、
1番2番と頭を洗う最中
「今年の初夢はナンダロナー」などと考えてしまっていたせいか、
ビクシーのボディーウォッシュのことはすっかり忘れて、
いつもの流れで石鹸をタオルで泡だててしまった。

大人の色香漂わせようってのに、2014年初っぱなからドジ。

気づいたころにはアワアワ。
そのまま流すのも勿体無いし、
石鹸だけですます2014年の幕開けも考えられない。

さいわい泡の量は少なめだったので
私はそれを足を洗う用として使うことにした。
だってふくらはぎから大人の色香漂わせても、、?って話じゃないか。
腕とか首らへんから香らせるもんじゃねーの?と思っている。知らないけど。

そんなわけでつま先、ふくらはぎ、ももと石鹸のあわで洗った。

そのあと、ビクシーのボディーウォッシュで上半身を洗った。
今まで匂ったことのない香り、
まるで自分自身がミックスジュースのフルーツの一員になったかのような気分になった。
しかも牛乳が使われた大阪風のミックスジュースではなく、
グアムとかでありそうな南国フルーツのみで作ったフレッシュミックスジュースである。
トロピカルの一員になった気分の私であったが、
下半身は牛乳石鹸女だ。
上半身南国フルーツ、下半身牛乳石鹸。
アンバランスである。


こんなので大人の色香漂わせられるのだろうか、
年明けから不安になった。

私は昔から「ものにつられやすい」人間である。


小2のとき好きだった言葉は「おだちん」だ。

「忍たま乱太郎」のきり丸をリスペクトしていた。

初めて「おだちん」をもらったのは

母が熱を出したときに近所の自販機に牛乳を買いに行ったご褒美だと今でもはっきり覚えている。

「あぁ、きり丸はおだちんをもらうとこういう気持ちになるんだなぁ。こりゃ幸せだ!」と小2にして

おだちんの良さを知ってしまった。


おだちんが出るなら何でもやるよ!という勢いの私だが、

つい最近まで皆そういう気持ちなのだと思っていた。

みんな「完全成果型人間」だと思っていたのだ。


しかし母によるとどうやらそうではないらしい。

完全成果型人間でない人はどういう思考なのか、

ものをつらされないでどうやって頑張るのか、

もはや私には全く、ほんとに全然わからない。

だったら逆に自分のことを説明してみよう、

ということで私の「完全成果型人間」的エピソードを紹介する。

これが私のスタンダードである。


一番誇りにおもう成果エピソードは中3の実力テストでのことである。

受験に関わる内申点がつく実力テストは重要だった。

私が完全成果型人間だと知る母は

「もし実力テストで平均80点以上とったらナイキのスニーカー買ってあげる」と

当時私が毎日考えるほど欲しがっていたものでつってくれたのだ。

実力テストまで私はナイキのスニーカーを頭に浮かべながら勉強しまくった。

結果良い点をとり、ナイキのスニーカー(ちょっと派手)をゲットしたのだ!!

梅田のStepに買いに行った日の光景は今でも覚えている。


次に、今でも理解できないと、何度も思い出してしまうこと。

姉と私の合格祝いの差について、姉がケチをつけないことだ。

私の高校祝いは、まず合格発表された夕方にお菓子パーティをし、

後日、日本料理屋でなんちゃら御膳を食べた。

そして大学祝いも同様、蒸し屋さんの美味しい蒸し料理を食べた。

これに対し!私の姉(6歳上)の合格祝いといえば

高校は近所のジョリーパスタ、大学は近所のピザ(しかも安売りだったからという理由)。

どちらも安いイタリアンである。

梅田の蒸し料理と、家から徒歩30秒ほどのピザ。

妹のほうがこんなに祝われていていいのか!差がひどくないか!と妹である私の方が叫びたくなってしまうが

姉はこれについて一度もコメントしたことはない。気にしていないのだろう。

たぶん彼女は成果型人間ではない。顔も似ていないが中身も似つかない姉妹である。


そして現在も完全成果型人間の私は

地元の店への取材1件2000円というバイトへ行く途中、

「これが終わると計1万4000円、、!」などと思いながら目的の店へ向かって自転車をこいでいる。


こんな風に成果が出ることが大好きな私、むしろそれがないとやってらんねえよな私なのだが

あくまでも成果が好きなのであって、お金が好きなのではない。

もらったお金をすぐ使うなんてことはしないし、通帳記入が趣味なわけでもない。

きり丸はリスペクトしているが好きなのは乱太郎のほうだ。

お金は必要なのだが、もらうものは別にお金でなくてもいい。

私にとって価値があるものならいい。おいしい讃岐うどんでもおいしいサラミでもいい。がんばれる。

ただ全く欲しくないサマンサタバサのかばんなんかはもらっても困るし別に頑張れない。


また、重要なのは頑張った結果、その褒美に何かがもらえることであって、

いきなり理由もなくポンと何かをもらうのも違う。

頑張った証がほしいのだ。


私がPitapaをなかなか作らないのは、無くす不安のほかにもう1つ理由がある。

時期定期券でなければ後ろに 22 23 23 みたいに使用した日にちがつかないからだ。

数字がたまっていくのを見ては「あぁ、こんなに学校行って、頑張ってるなぁ~私」と思うのが好きなのである。


頑張ったな~と思うのは好きだがその経緯、どんなふうに頑張ったのかは忘れている。

じっさい実力テストも受験もどれほど勉強したか、しんどかったのか、とかは覚えていない。

結果よければすべてよしなのだ!


そんなわけで私は小学生のときからこういう考えで、

ずっと皆こんな風だとおもってきたけれど

他の人は本当はどんなとき頑張れるのだろう。

今もっとも気になることのひとつだ。







最近の寝つきは本当にすこぶる良いです。

やはり呼吸を意識することが大切だとわかってきました。


しかし眠りにつく瞬間はどんなものなのかについてはイマイチ研究できていません。


「今日は眠り研究をするぞ!」とおもって意気込んだ日は

なかなか寝付けません。


考えてしまって眠れない。呼吸を第二にしてしまう。

呼吸を1位にしなければ!と思って呼吸を意識しだすといつの間にか眠っている。

朝起きてどのタイミングで寝たのかが思い出せない。


目をつぶっているとき、目の奥で幾何学っぽい柄が見えてくることがあって

そういうときは「朝起きたときここまで起きていたとわかるようにこれは覚えておこう!!」とします。

朝起きたとき、そこは絶対覚えていて、なんならそのあと5分くらいの動きも覚えているのですが

そのあとは思い出せない。


はやく寝付こうとすると研究ができなくて、

研究をしようとするとなかなか寝付けない。


これが眠り研究のジレンマです。


同じようなジレンマはニキビ対策ブログにもあります。


私は最近肌荒れが気になるのでよく

「ニキビ 治る」 「ニキビ 薬 効果」とかでインターネット検索をします。


そうするとニキビ治療をしている人のブログにたどり着くのですが、

たいていそんな人は色んなニキビ治療を試してはやめて、また新しいのを試しては・・を続けています。

ようは治っていないということです。

私が考えるに、

それはニキビのことを考えすぎているからでしょう。

ニキビ研究をしているからストレスになってニキビができてしまう。

あぁ、悲しい。肌荒れの辛さをわかるからこそ悲しい。

ニキビのことなんてかんがえたくなくてもかんがえてしまうのです。

ブログでもかいて他の誰かニキビで苦しむ人のためになれば私のこの辛さも救われる、、と思ってるやってらっしゃるのでしょうけど、悲しいです。


ニキビ治療ブログを書けば書くほど肌荒れはなおらない。


これがニキビ治療ブログのジレンマです。


何事も考えすぎはよくないのですね。

やはり『呼吸第一、思考第二』のように少し離れているくらいがちょうどいいのかも。

こないだまでの私の悩みは

「会話がうまくできない」ということでした。


質問をされるとその意図がわからなくて、全く違う答えを返してしまう。

「昨日何食べた?」「トマトスパゲッティ」という答えがひとつの会話ならできます。

でも複雑な会話となるとダメダメで、

いつも自分はとんちんかんなことを言ってしまっているのじゃないか、とか

後からあの時ああ答えたのは間違いだったな、とか永遠に考えてしまう。


こんな風に

「会話がうまくできない」とうじうじ悩んでいました。


先輩や母親などいろいろな人に相談していたある日、

ふと思ったのです。


そもそも「会話ができる」という前提がおかしいのではないか、と。


小学生の時から私はよく変わっていると言われ続けていました。

「ふつう」と「変人」の線引きはわかりません。

私自身としてはずっとこんな風に生きてきたからこれが「ふつう」なのですが、

私からみて「超変人」である父の血を自分にも感じることが時々あるので

きっと変なところもあるのでしょう。でもまぁ皆あると思うのだけれど。


まぁとにかく、私にはきっと変なところがあるから会話なんてまともにできない。

脳の回路が会話相手と違うからとんちんかんな返事になってしまう。


でもそれを楽しめばよいではないですか!


私はなんでこんな返事をするのに行きついたのか、

それを考えたらおもしろい発見ができるのじゃないだろうか。

相手と違う回路を持っているからいいのだ。だから会話は楽しいのだ。


周りをよくみてみたら 皆ときどきとんちんかんなこと言っています。

でも私はその人たちのことを「分かってないヤツだ」なんて嫌いにならない。当たり前ですが。


逆になんでそのズレがでたのかを少しかんがえる。

あぁこれは私がこういう言い方をしたからか~。とか、

このひとはここをそういう風にみていたのだな。とか、

これまた楽しい発見ができる。


偉大なことば みんな違って みんないい


ズレが楽しい発見をうむ。ズレも会話の一部。


悩みの根本がお気楽なほうへ逃げていった気はしないでもないですが、

会話ってのはまじめに相手をわかろうとする気持ちがあればきっと良いんじゃないかな~という結論に至りました。








こないだハヤシライスをレンジでチンしているとき急に

「ハヤシライス」って言葉の中に「林」があることに気づいた。

なんでずっと「ハヤシライス」は「ハヤシライス」としてなんの疑問も抱かずに生きてきたのかが不思議。

だって「カレーライス」のことは「カレー」っていったり、カレー臭と加齢臭を掛けたり、「カレー」という言葉を意識してきたのに

「ハヤシライス」のことはたまに「ハヤシ」と呼んでも「林」と掛けたりしたことはなかった。

「ハヤシ」と「ライス」は分かれているって知ってるのだから「林ライス」ということに気づいてもよかったのに。


なんで気づかなかったのか。

大きな理由は小学校のとき「林」という苗字のクラスメイトがいなかったからじゃないか。


もし林さんor林くんがクラスにいたら給食でハヤシライスがでたとき絶対ちゃかされることは間違いないのだ。

そこから私は小学生にして「ハヤシライス」は「林ライス」というイメージを持つことになっただろうに。

いなかったがためにそれに気づかないで19歳まできた。

1人のクラスメイトの有無で「ハヤシライス」へのイメージに林をプラスするのに10年近くも違いがでる。


ところでハヤシライスのハヤシは林からきているのか?

カレーライスが加齢からではないところからみるとハヤシライスも関係ないのかな。

しかしハヤシライスって野菜はごろごろ切りよりも短冊切りのイメージだから林っぽいかもしれない。

短冊切りなのはもしかしてうちだけという可能性も無きにしも非ずだけども。


インターネットで検索してみよう。


ハヤシライスのウィキペディア をみたけど、語源たくさんあった。

ハッシュド説・林さんが生み出した説・早死説などなど。

だけど、木々の林説はなかった!!

予想はずれなり。


ついでにハヤシライスの画像もみたけど野菜じたいがそんなにはいっていなかった。

確かにそうか~。