20年ちょっと前、音楽大学を卒業し、将来何をするかを考える頃、わたしは高校からの夢のオペラ歌手はとうに諦めていた。
なぜならば大学に入って自分の声量がどんなに頑張ってもオペラ向きではないということに気がついたからだ。
それなりに歌えるようになっても、それだけは持って生まれたものがあり改善できない。
響きが増すことで変わることはあっても劇的な変化はない。
オペラをできないということは音楽で何ができる?
昔から好きな合唱をプロでやってみるか。
と思い、三つの団体のオーディションを受ける。
一つは学年で上位の子と一緒になったが、なんとその年オーディション採用は1人も出なかった。もちろん、わたしも一次ですとんと落ちた。
悲しくすらなかった。
もう二つはすんなりオーディションが通った。
これで、自分は音楽を手放さなくて良くなった。と思った反面、年収100万もいかないのに音楽のみで生活することはできないのだからと20歳からバイトで行っていた介護の仕事をそのまま続けることにした。
稽古とバイトと本番とで明け暮れる日々。
歌の本番は春夏秋で長期で旅公演に行く。
保育園、幼稚園、小中高、そして老人施設。
北は北海道南は九州までどこでも行った。
それなりに充実してはいたが、月収で給料しはらいのある卒業の年に一次で落ちた合唱団にどうしても入りたかった。
翌年、その翌年も受けるが落ちる。
オペラの合唱団も受けてみたが、オーディションを受けに来た人たちに圧倒された。(そこでも声量の差を思い知らされる)
当然のように落ちる。
それからは他を受けることなく、
自分の受かった合唱団と多少のCMのお仕事などしながら過ごしていた。
7年経ったある日、トラブルがあり、社長と揉めて、合唱団は辞めた。
もう中堅なのにやめるなんて、と先輩方からとめられたけど、わたしの美学に反することがおこったから続けられなかった。
そして、数年前、揉めた社長が亡くなって、彼はいないんだしそろそろ戻ってきたら?と幹部に言われる。戻りたい!となって戻る約束をした時は躁状態だったが、いざ本番、
それが激鬱2018年と重なり、マタイ受難曲全曲だったのに楽譜すら読めない状態となり、自殺を何度も試みてしまう。
ご飯も食べられなかったので、一緒に介護に入っていたヘルパー(その時2人体制だった)に無理やりご飯を口に入れられるくらいだった。
そこから躁と鬱を数え切れないくらい繰り返し、
今病院も変えて薬もすごく丁寧に調整されたおかげか、かなり安定している。
なぜか定期的に躁にはなるけど激鬱にはならないでいる。
で、3月の29日。演奏依頼が届いた。古巣の合唱団のライブラリアンからだ。
インフル真っ最中で熱がありながらも介護の事務作業をしていた時、合唱団のフォルダのメールが光った。
なんだろ?と思って開いてみて目を疑った。
なんと、わたしが一次で何度も落ちた合唱団からの演奏依頼だったのだ。しかもプロとしての。
アマチュアとして一緒に出ることはあったとしてもお仕事としてのらせてもらえるなんてこんなありがたいことはないんだ。
いや、古巣の合唱団で9月頃に有名プロデューサーの持ち込み企画で行った演奏会に出たのだけど、そのプロデューサーがまた企画した團伊◯磨生誕100年演奏会で歌わないか?というものだった。
練習は1回、のこりはオケ合わせ、ゲネのみの本番。しかし歌うボリュームはそこそこある。
出たい!しかし大丈夫か?
5月4日本番で請求、給与計算真っ只中なのにちゃんとできるのか?
でもこんなチャンス2度とない!
急いで介護の仲間に連絡。
これだけ出させて欲しい。1日練習日が介護の人被ってるからどっかとトレードさせて欲しいと懇願。
そもそも、インフルになる前に具合がとにかく悪くて精神状態も悪かったからか、理事長にめちゃくちゃ心配されていて
絶対このまま鬱になるからお願いだからもう働かないでと言われていて、そのインフル中の懇願だったため、
なぺすが介護だけじゃなくて歌でも活躍してくれることはとても嬉しいんだけど、本当に大丈夫なの?
と心配されたのだけど本当に大丈夫です!絶対にちゃんとどちらもやるからやらせて欲しい!とおしきってお仕事を引き受けてしまった。
そしたらなんと楽譜到着が先週の火曜日?
なんだよー!と思いながら必死で勉強して、昨日の稽古になんとか間に合わせた。
さすがのハーモニーだった。
一回の稽古しかも予定は1330-1630だったけど15時には終わった笑
指揮者が要求することに全てバチっと答える人たちばかりが入ってて、わたしが入っていようが大きな響きの中ではなんのそのだった。
少しでも戦力になっていればいいのだけど。
とても幸せな2時間だった。
あと2回しか一緒に歌う機会はないけど精一杯練習していい本番を迎えられるといいなと思っている。
はぁ。43にもなって違った形とはいえ夢が叶うなんて。感激。