「勿論自分の言葉は自分の心から出たものである。それが汝には理解できぬか」
鉄木真(テムジン:ジンギスカン)が言うと、忽蘭(クラン)は、
「おそらく、汝の言うことは真実であろう。そうでなかったら、私にはとうに死が訪れ
ている筈である。汝のいま私に対して持っているものは愛であるか」
忽蘭はいつもとは全く異った、少ししんみりとした調子で言った。
「然り」
鉄木真は答えた。
「汝はいま愛だと言ったが、果たしてその愛は他のいかなる女に対するものより
大きく深いものであろうか」
「いかにも」
「汝の妻に対するものよりもか?」
井上 靖 『蒼き狼』
近い将来、モンゴルの王となる男と、捕縛されたメルキト部族の娘忽蘭との会話である。
覇王ともいえる男に、二者択一的な質問を巧みに連ねて、自身の死と生の狭間を辿って
いく女の姿は、すばらしく野趣味に富んだ荒々しさと、ごく普通のありふれた仕草の両方
を感じさせるものです。
精神的な欲求にこだわり続ける忽蘭の姿が、破壊・殺戮・征服といった当時の厳しい現実
と、とてもよく対比されています。
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