「お雪は倦みつかれたわたくしの心に、偶然過去の世のなつかしい幻影を
彷彿たらしめたミューズである。・・・・・・お雪は今の世から見捨てられた
一老作家の、たぶんそれが最終の作とも思われる草稿を完成させた
不可思議な激励者である。」 永井荷風 『墨東奇譚』
作者が「ラビラント(迷宮)」と表現する、昭和初期の本所界隈は、当然、
見たこともない風景でありましょう。
なにせ、戦前なのですから。
40年ほど昔に錦糸町にいたことがありますが、浅草に向かって北に歩く
ほどに、どこもかしこも四角く区画整備された街だなと、感じました。
ラビラントは入り組んだ迷路であったはず。そこで客取り商売をするお雪
と、老作家の他愛もない会話が醸し出す空気は、もはやどこへ行っても
薫ることはないでしょう。
空気が、大人びたまろやかさで満ちているのです。
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