前回の六工社跡地に沿った神田川を上ったところにお寺が並びで2社ありました。
その一方の清水寺に伺ったとき、護摩堂の賽銭箱の後ろから、睨みをきかせたニャンコが。。。
ホントは気持ち良く寝ていたところを起こしてしまったようです。
お堂からのっそり出てきて、地べたにごろん。
ハイ、撫でて〜のポーズ。名前は、にゃにゃ太郎。元は野良だとか。毛並みはやわらかで気持ち良かったけど、夏は暑そう。顔が大きくて、よく見ると傷跡がいくつもありました。この辺りのボスかもしれません。
住職さんが出てきて下さいました。六工社に関連する建物が、跡地以外にも残っていないか質問してみましたが、無いようにおっしゃっていました。住職さん、にゃにゃ太郎、短い時間でしたがお付き合いいただき、ありがとうございました。
さて、ここは六工社跡地に向かう途中で立ち寄ったお寺です。養蚕に関係しているそうなので、お参りしました。
仁王様の八脚門。
訪れたのは夕方近くということもあってか、落ちる影の深さに階段を上る足取りが、少し心細くなりました。
階段を上りきると、開けた平地に出ました。懸崖造りの建物が目に飛び込んできます。これは迫力があります。
ここは、
「蟲歌観音
松代在の平林村の百姓がある時、別所の観音様から布引き観音様などを巡礼して、地蔵峠まで帰ってきたときに千万人が一時に泣くような声がする、ハテと耳を澄まして聞いていると、どうも自分の家のある方のように思われる。
今までに聞いた事のない不思議な泣き声であるが何であろうかと、急いで帰ってくる、自分の家に近づくにつれてその声が益々高くなって来て、いよいよ自分の家の裏手まで来ると、その声は確かに我が家であるのが知れて、駆け込んで行く。
不思議な泣き声について妻に尋ねてみると、蚕の繭を日に乾かして置くと蚕が干し殺されるのを悲しんで泣き出したので家の中へ取り入れたが、どうしてもその泣きが止まないので困っていると云った。二人は多いに供養してやったが、まだ気が済まないので西條村の堂平から千手観音様をお迎え申して、お堂を建て、勧請して置いた。それを虫歌観音と云って信州三十三番の札所になっている。その後には繭を干しても泣き声を出す事は無いようになったと。」
お寺の名前を風流だなと思いましたが、この昔話を知ってしまうと、蚕を飼っている私としては身の毛がよだちます。「蛹が悲しくて泣く」ところは他では聞いた事がありません。とてもユニークであり、恐ろしいです。
恐ろしく感じる理由は、私自身が蚕の命を取っているからに他なりません。蚕は声を出して泣くことはありませんが、生繭を煮るとき、繭を保存するために殺蛹するとき、蚕の命を考えないことはありません。どんな小さなものでも、その命を奪うことには恐れが伴います。私の個人的な考えですが、どれだけ美しい糸に仕上げたとしても、そのために殺すことは私のエゴだと思っています。その糸は美しく、糸をつくる技術も奥が深く止めようとは思えません。命を取ることへの恐れと罪悪感を抱きながらも利己主義であるという矛盾は、糸の技術を学び始めたときから一生決着しない心情です。
蚕の供養といえば、日本では供養碑などを全国各地で見ることが出来ます。これまで考えたことはありませんでしたが、他国には蚕の供養碑は存在するのでしょうか? 宗教上、不殺生だから蚕を飼わないとか、また羽化後の出殻繭を紡績する「ahimsa silk」があります。これらは、私は殺生をしないということが明確でわかりやすいです。殺生した上で、その命を恐れたり、感謝したり、冥福を祈るという感じ方は複雑です。アイヌ民族や、インディアンは、そうした考えがあったように記憶しています。まったく詳しくないので、これ以上は内容を広げられませんが、その在り方には関心があります。
「虫歌の観音さま」の解説板です。養蚕家の人たちがこぞってお参りに訪れ、養蚕守護の観音堂として栄えたとあります。ご本尊の千手観世音菩薩様は、暗くて見えませんでした。
お堂の内外を見て回りました。養蚕に関する額やお札などが飾られていたら見たいなと思ったのですが、そういうものは1つも発見できませんでした。
『富岡日記』には、横田家は養蚕をしていたと書いてありました。和田英らも豊作を祈願しに、こちらに参拝したかもしれないなと思いました。横田家からお寺までは徒歩30分くらいです。ちなみに、旧横田家から六工社跡地までは、徒歩25分くらいです。六工社へ行く道とこのお寺とは通りが途中で分れるのですが、英が通った道を同じように歩いてみるのも楽しそうです。
最後に、とても暑い日だったのでかき氷を食べました。真田宝物館の近くにある竹風堂さんの夏季限定「栗みぞれ」です。自家仕込みの栗蜜がかかった氷の上に栗あんが贅沢にのっています。最高に美味しかったです。オススメです。