先月、長野県の松代方面へ遊びに行きました。

松代といえば、わたしにとっては『富岡日記』を書いた和田英、そして六工社です。

和田英は、松代藩士横田数馬の次女で、官営富岡製糸場に伝習工女として入場した女性です。富岡日記は、英が晩年に、入場を決意したところから富岡製糸場での日々、退場後に郷里にできた六工社でのことを綴ったものです。

 

今回のドライブは、長野県立歴史博物館〜旧横田家住宅〜六工社跡地を巡りました。当館から歴史博物館までは車で片道2時間くらいです。実際は2回にわたり訪れた場所なのですが、ここに書いたコースのみなら1日で巡れますので、ご参考まで。

 

さて、長野市松代のお隣、千曲市にある長野県立歴史博物館には、常設展に六工社の資料があります。中でも、この六工社の器械の復元と錦絵を拝観するのが楽しみでした。

 

 

 

 

 

 

その錦絵『信濃國埴科郡西絛邑六工製糸場之図』です。

六工社は、明治5年(1872)に創設した官営富岡製糸場から2年後の明治7年に創立しました。官営富岡製糸場を模倣した日本初の民間製糸工場でした。和田英らが伝習工女として入場した目的の1つに、郷里の松代に製糸場を創設することがありました。その暁には、英らが繰糸技術の指導者となるべく一等工女を目指しました。松代藩からは伝習工女以外にも蒸気や繰糸機などを参考にするため、その製造に携るよう拝命された者たちが富岡製糸場を幾度か訪れています。

 

 

 

 

 

 

 

官営富岡製糸場の器械は、フランスから取り寄せたものでした。当時の日本で同一のものを製造することは大変困難だったでしょう。六工社の蒸気釜は地元の松代焼の釜が使われたそうです。地元にはボイラーはもちろん煮繭や繰糸釜、蒸気を通すパイプなどをつくる技術はなかったため、大変苦心したようです。

 

富岡日記(信濃古典読み物叢書より)には、六工社の器械について述べている部分があり、「かねて覚悟していたことなので別に驚きもしませんでした。かえって、これほどまでによく出来たものと思いました。しかし、富岡と違いますことは、もう天と地ぐらいあります。銅、鉄、真鍮製であったものは、だいたい木で作ってあります。ガラスは針金に変わり、煉瓦は土間となっています・・・しかし、まずまず蒸気で糸が取れるということだけでも、日本人だけでほんとうによく出来たと感心」したとあります。しかし、蒸気はスムーズに行き渡らず、繰糸効率はなかなか上がらなかったようです。9日間も繰糸し続けると燃料材の油煙が詰まりました。休日の前日に繰糸が終わると、直ちに釜掃除が行われました。掃除をするには、元釜の土で塗り上げている部分を毎回崩さないといけなかったようです。掃除が済んだら土の塗り替えです。六工社の責任者だった大里忠一郎までが、土をこねて手も足も泥だらけで働いていたというエピソードが書かれています。創業当時の苦労が垣間見られ、とても面白いところです。この時代に信州で工夫されたノウハウが、やがて日本の繰糸技術やその機械の発展に大きく貢献して行きます。

 

 

 

 

 

 

話を錦絵に戻します。繰糸部分の図。蒸気を熱源とし、各工女が独立して、繭を煮ることから繰糸を行い、1人で2枠の生糸を取るフランス式です。六工社では、50人同時に繰ることができました。

 

繭を桶に入れ運んでいる人、煮た繭から糸口を出している人、繰糸している人、繰糸が終了したのか車輪に手を掛けている人が生き生きと描かれています。

 

官営富岡製糸場のフランス式繰糸機については、過去に書きました。ご興味ございましたら、ご覧ください。「岡谷蚕糸博物館見学会その1 フランス式繰糸機について」

 

 

 

 

 

 

テーブルの図。緞子のような織物を敷いたテーブルで3人の男性が会議か商談をしているのかな。

 

 

 

 

 

 

選繭と再繰、仕上げ部分の図。右手前の赤い椅子に座って作業しているのは、これから製糸するための繭を選別しているところだと思います。左手前から奥に向かっている器械は、繰糸した生糸を大枠に巻き直す(再繰)ものです。動力は、隣の部屋の水力から来ていることがわかります。富岡日記では糸揚げ、当館では揚げ返しと言っている作業です。手前でしゃがんでいる人は、揚げている途中で糸が切れたので、その小枠から糸口を探しているところではないかな。奥の人は糸が切れていないか見守っているところでしょうか。それから、右の奥は、大枠から外した生糸を2人がかりで捻じって仕上げているところだと思います。描写が細かくて見ていて飽きません。

 

 

 

 

 

 

運搬の図。繭を運びいれている人と、生糸を運び出している人ではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

歴史博物館には、他にも蚕糸に関する資料があります。全てを書くと大変なので、以下印象に残った展示をあと3つご紹介します。

 

 

 

 

 

 

松本市にある宝輪寺蔵の『製糸絵馬』の複製。明治25年のもので、六工社を想わせる繰糸風景です。丸形の煮繭鍋と半月鍋がしっかり描かれています。

 

 

 

 

 

 

明治時代の製糸工女の服装の復元展示。左は工女に技術を指導する教婦さん、右は工女さんの服装です。

 

 

 

 

 

 

明治時代の製糸工女の食事の複製。左から、朝食、昼食、夕食の膳です。ご飯、味噌汁、おかず一品の食事で、ご飯と味噌汁はおかわりが自由に出来た。ご飯は、米に麦の入ったものだったが、時には米だけのこともあったとか。こうして具体的に目で見て学べるのはわかりやすくて、とても良いです。

 

山本茂実著『ああ野麦峠』を読んでいると、山奥の村からくちべらしもあって働きに来る工女たちは、白米が食べられるだけで喜んだそうです。出稼ぎの初期の頃は、食事が対価で賃金が発生しなかった事例もあるようです。貰えても、足下を見られて賃金が安かったとか。

 

 

 

 

 

 

さて、長野市松代にある和田英の生家、重要文化財 旧横田家住宅に移動しました。

静かな住宅街にあります。建物前には専用の駐車場がありました。

 

 

 

 

 

 

和田英の生家にやっと来られました。富岡日記ファンなので感無量です。

 

旧松代藩士横田家は、禄高150石の中級藩士で郡奉行などを務めた家でした。この住宅は他の藩士宅と同様に、一種の公舎で、横田家が現在の地に移ったのは18世紀末だそうです。屋敷は江戸時代末期の様相で、当時の位置に屋敷地及び建物がほぼ完全に保存されており、貴重なのだそうです。

 

 

 

 

 

 

 

池に面した仏壇と床の間のある座敷。

 

 

 

 

 

 

庭から見た外観。一番奥の建物は隠居屋です。英の祖父はここで余生を過ごしたのではないでしょうか。英が富岡製糸場へ行っていたのは1年3ヶ月のことです。この間に祖父は病になり亡くなっています。製糸場に届く家族からの手紙で祖父の病を知った英は、一之宮の貫前神社へ参拝し祖父の全快を祈っていました。富岡の地から、祖父の顔、家族、この生家をいつも思い出していたことでしょう。富岡日記の祖父の訃報を記したところは、読み返すたびに涙が出てしまいます。

 

 

 

 

 

 

隠居屋からの庭の風景。

 

 

 

 

 

 

旧横田家住宅の真正面の専用駐車場の隅に、代官町(原)窯跡の標柱がありました。

後で調べると、松代藩の松代焼は、天王寺山焼、寺尾焼、荒神町焼、代官町焼(岩下窯・原窯)の陶製品の総称でした。先にも述べましたが、六工社の蒸気釜は地元の松代焼の釜が使われたそうです。六工社の創設には、英の父の横田数馬が尽力しているので、横田家の真ん前にある岩下家が窯で関係していたのかと連想しました。しかし、この代官町焼は1843年で終わっているようなので、ここで蒸気釜を作ったのではないですね。ちなみに、蒸気釜の考案者は松代藩士の海沼房太郎という人です。松代焼の釜は凍み に強く、使いやすい利点があったとのことです。

 

 

 

 

 

 

旧横田家住宅を後にし、松代町西条へ向かいます。写真中央の谷地を山のほうへ向かうと六工社のあった場所へ辿り着きます。

 

 

 

 

 

 

六工社の跡地です。

明治7年(1874)に松代藩士大里忠一郎らが同志数名と共に計画しました。その中には、横田数馬の助力もありました。六工社の沿革は、歴史博物館の大正9年(1920)の展示資料によると、六工社製絲場はこの西条とその後松代にも工場があったようです。明治26年には松代工場が独立して六工社を名乗り、西条の工場は本六工社を名乗った。当時の六工社はわずかに組合的に製糸業を経営していたに過ぎなかったが、明治34年に合資会社本六工社になった。最初の六工社製絲場は50人繰り(50釜)だったのが、大正9年に工場は本社工場と第一工場、松代工場の3工場を合わせて732釜で、松代一の製糸会社になっていたようです。

 

 

 

 

 

 

ここに繰糸場、釜場、水車、工女部屋、薪置き場、用水池、帳場炊所、浴室等が備えられたのですね。

いまでは、その面影を見つけることは難しいです。右の建物は最後は椎茸か何かを生産していたような感じがしました。当館の見立てでは、もし、右の建物がかつて蚕糸関連に使われていた物だとすれば、蚕種の催青をしていたかもしれないなと想像するくらいです。看板の後ろに桑の木が一本ありました。左の建物の外に稚蚕用のような蚕箔が雨ざらしになって立て掛けられていました。関連があるかは全く不明です。

 

 

 

 

 

 

六工社があった場所には谷川が流れています。

 

 

 

 

 

 

歴史博物館の錦絵や復元にもありましたが、当時の器械製糸の動力には水車が必要だったので、水のある立地が不可欠でした。その軌跡を求めて川沿いを少し上ってみました。

 

 

 

 

 

 

夫が工場跡地の方へ向かって人工的に引かれた水の取り入れ口を見つけました。

 

 

 

 

 

この写真の中央にある長い石材は、昔使われていた取り入れ口のものではないかと想像しています。そうだとしたら、ロマンチックだと思いませんか。

 

このブログを書くにあたり、改めて六工社の資料を探してみたのですが、有意義な資料を見つけることが出来ませんでした。詳しく調査している研究者が少ないのかも知れません。もし、六工社の製糸に関する良い資料をご存知の方がいらっしゃいましたら是非お教え下さい。もっと学びたいと思っています。

 

 

 

 

 

おまけ。六工社跡地を流れる神田川の動画をYouTubeにアップしました。