ton-cara さん主催の岡谷蚕糸博物館見学会その4です。

 

今回は、株式会社宮坂製糸所さんのご紹介です。

宮坂製糸所さんは、長年染織に携っていらっしゃる方なら知らない人はないと思います。同館が新しく「シルクファクトおかや」としてオープンした平成26年8月に、元々営業されていた場所から博物館内に移転されました。移転される前は、業界の方が企画する見学ツアーなどに参加しないと一般ではなかなか見学はできませんでした。それが今では入館料さえ払えば、いつでも誰でも工場見学ができるのです。こんな素晴らしいことはありません!!!宮坂製糸所さんを敬愛している当館は、このとき大いに歓喜したのでした。

 

 

 

 

 

 

工場エリアの壁には、宮坂製糸所さん手づくりの沿革が写真と共に紹介されていました。まずは、こちらをご紹介します。

 

宮坂製糸所は1928年(昭和3年)に宮坂武(1910-1990)が創業。武は5歳で父清一が病死し、母ますと親1人子1人で育つ。諏訪蚕糸学校を卒業、3年ほど製糸会社小口組に勤めた後、18歳にて8釜で起業。当時は世界恐慌の影響で製糸業も急激に失速、衰退期に入りつつあり、親戚から反対されながらのスタートだった。

写真:左から「諏訪蚕糸学校で繰糸自習中の武(1924頃左から2人目)」「20代前半の武(1935頃)」

 

 

 

 

 

 

工場規模は16釜となっていたが、1941年戦争の影響により製糸業中断、武は1950年の再開風船爆弾製造、メリヤス、真綿加工等、様々な仕事をした。

写真:左から「母ますと妻登起子、長男照彦(1939)」、「工場外観(1940頃か)」、「出釜方式で製糸再開、工女さん他(再繰部のみ3名)(1953頃)」

 

 

 

 

 

 

 

武は長男照彦が後継者となる事を強く望み、大学卒業後も研究室に勤務する照彦を呼び戻し、1963年念願だった座繰工場を建設。

写真:左上「照彦、信州大学繊維学部在学時(1958頃)」、右上「武、座繰工場建設、稼働開始(23釜 1963)」

 

 

 

 

 

 

1976年原料繭の高騰や人件費の値上がり等から座繰機による経営が苦しくなり、急ぎ自動繰糸機を導入する事となり、井戸堀削やボイラー新設、11月には10釜200緒の自動機稼働スタート。長年座繰に携って頂いた多くの方々をここで解雇しながらも、10釜だけ諏訪式座繰機を残す。

写真:左上「取り壊し前夜の2代目ボイラーと武(1976)」、右上「突貫工事中〜古い煙突(左)と新煙突(右)(1976)」、左下「自動繰糸機稼働風景(1978頃)」、「工場内再繰部での忘年会(1978頃)」

 

 

 

 

 

 

自動繰糸機導入が功を奏して経営が軌道に乗り、1978年には6釜増設。しかし1980年代後半より外国産生糸との競走が厳しくなり、製糸工場が次々廃業に追い込まれる中、1996年愛知県豊橋の浅井製糸廃業に際し、その玉糸(たまいと)繰糸技術と上州式座繰機の後継を依頼される。1997年NHK『新日本探訪』で上州式座繰機導入後の日々等、製糸業の存続を模索する様子が他社と共に全国放映され、思いがけずおおきな反響があった事を契機に自ら存在意義を認識することが出来た。以後、精力的に見学者を受け入れ、蚕糸博物館との連携を大切にして来た事が、今日につながっていると感じる。

写真:左上「玉糸繰糸特訓中(1997)」、右上「田中康夫 長野県知事訪問(2003)」、左下「檀ふみさん訪問(2007)」

 

 

 

 

 

 

ここからは、高林館長さんに解説いただいた糸の性質のお話も踏まえ、僭越ながらご案内させていただきます。

 

沿革にある1963年の座繰工場といのは「ざそうこうじょう」と読みます。この座繰(ざそう)は上州座繰(ざぐ)りとは違います。何かというと、今回の見学会その2 の中で説明した明治以降に日本に導入された洋式の撚り掛けを使った繰糸方法です。繰糸する人は繰糸機の前に座り、繭から糸口を出すことと、ボタン状の集緒器(しゅうちょき)を使い、繰られて行く繭糸に新しい繭糸を足す添緒(てんちょ)作業は指先で投げつけて行います。諏訪式繰糸機(すわしきそうしき)多状繰糸機たじょうそうしきがこれにあたります。

 

 

 

 

 

 

宮坂製糸所さんといえば、諏訪式繰糸機でしょう。ホームページでは「諏訪式座繰機(すわしきざそうき」と呼んでいらっしゃるので以降はそのように統一します。この座繰機は明治時代に岡谷で発明されました。昭和に入り製糸工場の大半が自動繰糸機に切り替わる中、宮坂製糸所さんはこの座繰機を10釜残されました。いまでは座繰機で生糸を生産しているところはほとんどありませんから、貴重な存在です。

 

作業内容は、先にも述べましたが繰糸者が繭を煮て糸口を出すところからです。木製の繰糸台には陶器製の小さな煮繭鍋と大きな繰糸鍋、手を冷やす冷水だめがあります。煮繭鍋と繰糸鍋には蒸気が通っていて温度調節が出来ます。給水、排水もこの場で出来ます。煮えた繭は繰糸鍋の一番手前で座繰用のミゴ箒で掃いて糸口を出します。撚り掛けはケンネル式の4条繰りで、繰糸した生糸は繰糸者の背後にある4つの糸枠に巻き取られて行きます。繭糸を指先で足す添緒作業の優雅なことったらありません。見学の際はお時間が許されるなら、糸口を出すところから一連の動作をぜひ静かにじっくり見ていただきたいです。

 

諏訪式座繰機の生糸は、自動繰糸機の生糸よりも味わいがあります。繰糸時の撚り掛けはしっかりしていますが、自動繰糸機ほどではないので繰糸張力が小さく(伸び切っていない)、生糸のかさは増し、織物にふくらみがあり、やわらかな風合いになります。明治、大正期の織物が現在でも評価されているのはこの糸に負うところが大きいとされています。主に和装用に利用されています。人間の手技が入りながらも生産能率のよい繰糸方法で、コストパフォーマンスが良いところも愛される所以と思います。

 

 

 

 

 


諏訪式の向い側には、上州式座繰機です。こっちの「座繰機」は洋式の撚り掛けではないので「ざぐりき」と呼んだ方がいいのかな。それともモーターで回して両手が空いているから「ざそうき」かな。これは聞きそびれました。

 

宮坂製糸所さんの沿革で「1996年愛知県豊橋の浅井製糸廃業に際し、その玉糸繰糸技術と上州式座繰機の後継を依頼される。」とあります。宮坂さんの上州座繰機のルーツは愛知県豊橋です。玉糸(たまいと)とは玉繭(たままゆ)を混入してつくる生糸で、豊橋地方では明治時代に群馬県富士見村(現前橋市)出身の小渕志ちが、手回しの上州座繰りから玉糸繰糸機を考案し、工場を豊橋市二川に開設して以来、玉糸繰糸が盛んに行われていました。(小渕し志ちさんのことは、いずれ詳しく書きたいところです。)それも、平成10年頃には豊橋地方ではすべて廃業されたようです。そして、その技術が宮坂製糸所さんに受け継がれました。

 

群馬県前橋市にも同様の製糸工場があったと聞いていますが、これもいまは姿を消しました。群馬県に残る座繰りは手回しの上州座繰りのみです。

 

 

 

 

 

 

作業内容は、こちらも繰糸台の前に座り、煮繭から繰糸まで一貫してこの場所で行います。稼働はモーター式で最大3緒を同時に繰糸することができます。繰糸者の近くにある柄の付いた箒は玉糸専用の箒です。刷毛部分は特注の化学繊維で出来ています。煮た繭から糸口を出したり、繰糸中に新たな繭糸を足す時に使います。

 

 

 

 

 

 

 

見学に伺ったときは、上州式で壁紙用の玉糸を繰糸されていました。新たな繭糸を足すのは添緒されてました。ほかにも、用途によって原料繭の配分や糸の太さの違う座繰り糸をつくっていらっしゃいます。

 

この上州式座繰機の糸は、今回の見学会でご紹介した繰糸機の中でもっとも撚り掛けの甘い生糸です。この繰糸工程でいう撚り掛けとは、撚糸の撚りでは無く繭糸の抱合をいいます。抱合が甘い造りなので玉繭や選除繭(せんじょけん)のように解れが悪く繰糸中のトラブルの原因になるような原料も繰糸することが出来ます。玉繭を使った生糸には独特の節が出ます、玉糸といわれる所以です。諏訪式の生糸は繰糸張力が小さいといいましたが、この生糸はそれがより小さいです。糸の太さは諏訪式よりずいぶんと太いものになります。繰糸時の粒数が多くなりすぎて、いちいち数を数えて太さを揃えることは難しいので熟練の技が必要です。この生糸には、洋式技術を取り入れた繰糸機では表現されない、大らかな表情があります。宮坂製糸所さんでは、主に紬や壁紙の素材として利用されています。

 

 

 

 

 

 

諏訪式と上州式の繰糸を見学できるエリア全景。

ここまでで、わたしの知識も事切れました。後はさらっとご紹介します。

 

 

 

 

 

 

ここからは、機械がメインのエリアです。

宮坂製糸所さんの自動繰糸機と新開発の繰糸機があります。その他、旧農業生物資源研究所が所有していた機械類も展示、稼働しています。写真中央は、繭検定型煮繭機です。

 

 

 

 

 

 

 

これは増澤式多条繰糸機です。岡谷の増澤商店製で明治末から昭和30年代まで繭の品質評価をするための検定用に使われていた優秀な繰糸機です。見学会その2で展示物を紹介しましたが、この日は稼働しているところも見られました。

 

 

 

 

 

 

 

 

写真がぶれちゃいましたが、日産自動繰糸機HR1型です。この日は稼働していませんでした。

 

 

 

 

 

 

こちらはFR型自動繰糸機です。通常は1セット400緒の長いレーンのものを10緒型のコンパクトな繰糸機にしたものです。こうすることで、台別に蚕品種の異なる繭の繰糸や糸の太さの異なる生糸をつくるなど、多品種少量生産ができるのだそうです。

 

見学会の時は、お1人でこの繰糸機を2台同時に扱われていました。ということは、1人で20緒です、すごい!!

 

 

 

 

 

 

これは新開発の銀河シルク繰糸機です。この日は稼働していませんでした。残念。

 

 

 

 

 

 

この繰糸機は、一度に300粒以上の繭を低張力で繰糸して1000デニールの極太糸をつくることができます。槽の回転が銀河系の動きに似ていること、天の川のように美しく輝いていることから銀河シルクと命名されました。糸の軽さを活かし、ニット製品、帯地などの素材に使用されています。これを愛用される染織家さんも増えています。

 

新開発の繰糸機といえば、もう一機、極細生糸繰糸装置という世界一細く極めて高品質の生糸を繰糸する機械もあります。これを製織した布も展示してあり、天女の羽衣の様で美しかったです。一番端っこの角に設置されています。なぜか写真を撮り忘れました。無念。

 

 

 

 

 

 

というのも、個人的にはこっちに気持ちが行っちゃったからかな。極細生糸繰糸装置の目の前に、この玉糸繰糸機があったものだから(言い訳)。玉糸の製造は、最後はこのように自動繰糸機まで完成しました。繰糸に合わせて自動で動く特殊な箒の姿が面白い。いまは稼働していません。

 

 

 

 

 

 

再繰場(さいそうば)です。宮坂製糸所内で繰糸された様々な生糸が、ここで糸枠から大枠に巻き直され、カセの形状になります。そして、括造りされて各機屋さんへ出荷されます。

 

こうして一連の機械を拝見して、ここまで多様な生糸を生産されている製糸所は、世界にも類がないだろうと思います。日本で蚕糸業が全盛期の頃は、自動繰糸や諏訪式繰糸、玉糸繰糸と各専門の製糸会社が存在したのが廃業し、それらの生糸を原料に織っていた産地や個人の要望に宮坂製糸所さんが応えて行く形で今の形態になったのかな。若輩のわたしが言うのもおこがましいですが、沿革にも書かれていましたが、そうした期待に自ら存在意義を認識されたことが、この日本の斜陽な絹業界の中にいて、第一線で活躍されている宮坂製糸所さんの強みなのではないでしょうか。本当にすばらしい会社です。当館とは規模が違いすぎますが、勉強させていただく事がいっぱいです。宮坂社長さん、高橋専務さん、社員の皆さん、大変お世話になりました。そして、高林館長さんには資料展示物から動体展示まで細やかに解説をいただきました。参加者の皆、大満足で帰路につきました。感謝しております。本当にありがとうございました!!