前回、群馬県利根郡片品村のことを書いたので、関連物件を続けてアップします。最近、1年ぶりに片品へ行きました。

 

まずは、前回気になっていた針山の蚕稲荷に向かいました。

 

 

 

 

 

 

いぶし飼いの永井紺周郎さん・いとさんご夫婦のお墓の前の道を山に向かって進むと蚕稲荷があるのです。道の途中に「穴観音と蚕稲荷」を紹介する看板が立っており、車が数台停められるくらいの広場になっています。そこから山道で、道幅が細くなります。300メートルくらい行くと赤い鳥居が見えます。

 

 

 

 

 

 

この鳥居を見たかったのです。桑葉と繭と蚕蛾の額です。

さらに400メートルくらい上ると登り口があります。

 

 

 

 

 

 

ここが登り口です。

 

 

 

 

 

深緑が美しかったです。でも、夏ということもあり、草木が鬱蒼として細い参道を隠そうとしているかのようです。登りながら、たまに上を望んでみるのですが、道がくねくね曲がっているのでまったく見えず、この先にお稲荷様は本当にあるのか心配になってきました。

 

 

 

 

 

 

でも大丈夫。ちゃんとございました。

1年に一度は地元の方が手入れをされているのではないでしょうか。5月には祭事もあるようです。わたしたちは8分くらいで登りました。全部載せてしまうと面白くないので観音様とお稲荷様のお社はアップしないでおこう。ご興味ありましたらお参りしてくださいね。看板のところから歩くと4、50分は見ておいたほうが良いですね。

 

 

 

 

 

 

さて、片品に来た一番の目的は、私たちのライフワークである養蚕に関する調査。「喬木(たかぎ)」についてです。

 

養蚕においての「喬木」とは、桑の収穫時に梯子を掛けるほど高く仕立てた桑のこと。また、その仕立て方のことをいいます。この仕立ては、雪深く、霜の降りる地方に見られます。この仕立てによる飼育方法は養蚕秘録などに載っていて、このような古法が今でも存在するなら見てみたいと思っています。

 

喬木を描いた昔の養蚕指南書の作者は、いずれも西の方なので、いつかはそちらも調査に行きたいですが、まずは住まいに近いところから。それに、伝播する法則として、古い技術はその中心から遠い場所にのこりやすいという説もあります。住まいからはるか遠くに時間を掛けて、灯台下暗しということになるのも残念ですしね。幸いなことに、群馬県だと片品の辺りに喬木があったことはわかっているのです。このブログには、これまで2回投稿しています。もしご興味ありましたらご覧ください。

 

2013年、カッコイイ養蚕の現場5 ー 喬木

2015年、喬木をもとめて

 

 

 

 

 

 

何処へ行くにも、桑が生えていたら目に留めておりますが、改めて探しに出るのは久しぶりです。こうして片品を回ってみると、大木になった桑が多いことったらありません。これは、上毛新聞の"シルクカントリー群馬" ならぬ "マルベリーカントリー" です。片品にお住まいの方は、こんなことキャッチフレーズにも思っていないかも知れませんが、桑の国です。県内でも、桑の大木がこんなにたくさん見られる村は無いと思います。

 

思うに、片品といえばリンゴが有名ですから良い土地は果樹に切り替わり、切り替えができない桑畑は、有効活用がなされることなく大木になったのでしょう。それも、寒冷地で元々の仕立てが喬木ですから、大木になるのも早かったのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

片品の養蚕が終わったのは、かなり早かったと思われます。そのこともあり、ただの桑の大木なのか、かつて喬木仕立ての畑であったのか検討がつきません。

 

上の写真は、傾斜畑の道端にあった桑です。群馬は土地の境の目印として桑を植えていることが多いです。これもそれでしょう。元々桑畑として利用していたのを辞めたときに土地の境になる桑だけ残したのだと思います。境の桑は手入れをしますから、この桑は養蚕をしていた当時から変わらず、季節になると枝を落としているのではないでしょうか。この桑は、現在に残る喬木仕立ての貴重な痕跡といえるかもしれません。わたしの身長は160センチ。わたしの年代では女性の平均身長ですが、サイトで見つけた日本人の平均身長が載った社会実績データ図録によると昭和前期の男性は165センチ、女性は153センチです。桑を収穫するには踏み台があった方が良い高さですね。

 

このように、わたしたちは、まだ喬木の見分け方がわからないので、丹念に数を見て行くしかないわけです。これを淡々とこなして行けば、そのうちに見えてくるのではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

今回は聞き取りも行うことが出来ました。食堂のお母さんに、片品の養蚕について尋ねると、やはり桑の木に登って収穫していたというのです。そのお母さんから、この土地で最後まで養蚕をしていたお家を紹介してもらいました。

 

数えで90歳になるおばあさんがお話しをしてくださいました。やはり喬木でした。この当たりが喬木仕立てだったのは霜が降りるからだそうです。山形は積雪から桑を守るためだったので、片品も同様だろうと考えていましたが。桑の品種は、霜に強い「坂東」です。梯子で登ったのですか?と質問すると、よじ登ったという回答。これは食堂のお母さんも話していました。いちいち梯子を掛けたのでは不効率だから。それも、男女関係なく登ったのだとか。子供がいる家だと、大人が木に登って落とした枝を、下で子供たちが回収したと。とても効率が悪いと話していました。当館でも今年の春蚕の最後の日にタテドオシになった桑畑から収穫をしましたが、想像以上に効率が悪いです。おばあさんの家では、最後の頃は霜が降りない傾斜の土地を借りた、そこは喬木より低い仕立てをすることができたので効率を上げられた、品種は「改鼡」。また、最盛期は村全体が養蚕をしていたから、手伝いが頼めない。お蚕上げの時は、勤め人が多い近隣の町の人に声を掛けて来てもらった。人数を確保するのに苦労した。お礼はお米だった。男は当てにならなくて、頼むのは女の人だったという話。

 

他にもいろいろ伺いましたが、印象に残った話をあとひとつ。おばあさんはお蚕を飼うのが大好きだったそうです。飼育の効率化にも夫婦で一生懸命取組み、まだまだこれからという時、たぶん昭和37年の生糸輸入自由化のことだと思われますが、繭の価格が暴落。同時に行っていた稲作も減反政策。ダブルパンチでした。周りの農家が当時人気が出た大根の生産に切り替え豊かになって行ったときも、養蚕を続けましたが、とうとう断念する時が来ました。「まさか、自分が死ぬまでに蚕をやめるとは思いもしなかったよ。」斜陽も斜陽、終わりをむかえる頃に始めた私たちからすると、思いもかけない台詞でした。おばあさんは、生家も農家で、敷地に繭の乾燥室があり、近所の人がそこに乾燥しに来たというのですから豪農です。生まれたときから蚕が中心の人生だった女性。重く心に刻まれる言葉でした。

 

 

 

 

 

 

おばあさんの家に向かう途中にあった桑の林。この日見た中で一番見事でした。桑の大木が規則正しくそびえていました。下草もきれいに刈られ管理の行き届いた美しい場所でした。