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東京育ちの叔父さんが、冬は東南アジアで、夏は高原の街で、田舎暮らしを楽しんでいます。金は無くても幸せに生きている・・・?な毎日です

昨日の夕方、綺麗な夕焼けになりました

家のそばの道で、車が何台も止まり、撮影していました

 



 



 

そのうちに、富士の上に笠雲が出来ました。

台風が上陸の予想なので、その前兆でしよう

富士の上の笠雲は、雨のしるしです。

案の定、台風が接近しています。





昨日は、地元の婦人の会に

絵手紙の講師として招かれました。

 

 

20人程の集まりです。

 

以前からテレビなどでも、紹介され、愛好者が

増えています。

 

絵手紙とは、基本は、心を伝える手紙だという事です

 

絵や、文字が下手でも良いと言う事です。

人は歳をとると、それまでの経歴や

面子や、世間体が気になり、下手でよい・・・・と言うことが

出来ません。  それを、一度、捨てなければ、楽しい絵手紙は描けません。

 

 

 

昨日も、そのように、指導したのですが、皆さん四苦八苦しておりました

 

幼児の絵が面白いのは、上手く見せようという意識が無いからです

 

 

 

それでも、時間内に、なんとか描く事が出来ました。

 

 

 

 

 

 

御殿場のオギノスーパーの所に

以前、豚富士 というラーメン屋さんがありました。


図書館の近くという事も有り、時々、食べに行っていました


ここの、ラーメンは他の店と違い、普通の醤油ラーメンでなく

今、流行の豚骨系でもありません


色が黒に近く、一見、しょっぱそうなのですが、そうでも

ありません。


独特のスープなのです。


しいて言えば、富山のブラックラーメン のようです。


そのラーメン屋さんが、店を閉めて、ずいぶんになります。


先日、息子とそんな話が出て、息子も、あのラーメンをたまに、

食べたい時があると言っていました。


たまたま 豚富士の奥さんと会った時に、そんな話をした所

ご主人を亡くされた事もあり、再オープンは考えていないと

言うのです。 ですが、もともとは、沼津のインター近くに

ある、豚平 という店が、あのラーメンスープのルーツだと言うのです。





先日、初めて、その店に行って見ました。


沼津インターから下り、国1号のバイパスの交差点

手前近くにありました。


平日でしたが、かなり、お客が来ていました。




麺は中太です


スープは、 豚富士 より薄い気がします。


味は近いような気がしますが

記憶からすると、豚富士のほうが 個性が強い気がしました。


それでも、 昔 通った 豚富士 に近い味を楽しむことが

出来ました。


息子夫婦が夏の休暇でやってきたました


息子が、伊豆長岡にある、ブルーベリー園に

ブルーベリーを食べに行こうと誘いました。


我が家では夏は、ほとんど出掛ける事はありません



高原の町、御殿場にいるほうが、よっぽど快適だからです。



それでも、折角だから・・・・・というので

お付き合いする事にしました。


平日だったので、予想に反して、道は空いていました。






ブルーベリーの季節は、6月頃と思っていましたが

早成りと、夏に熟すのがあるそうで、種類も100種類

以上あるそうです。


そんなに、種類があるなんて知りませんでした。



食べ放題で、40分  ¥1,000です。


畑に入ると、大きい実のや、小さい実など、

この時期は10数種類が実っていました。













5~6個まとめて、口にほうりこみます。


その他に、ブラックベリーという木苺のようなのも

ありました。






こちらは、酸味が強いので、子供には不人気のようです。


息子達は時間いっぱい食べていました。


息子達は、食べているうちに、視力が良くなり

遠くが良く見えてくる・・・・と言うのです。


なんとなく、良くなったような・・・・気がします。


暑い盛りのブルーベリー狩りでしたが、楽しく、美味しく

過ごしました。





私の父は先の大戦の折に、左腕を爆弾で

失いました。


私が生まれて1ヶ月後の事でした。



そんな中で、八月十五日を迎えたのです。



母はこれから先、子供を抱え、どうして生きていこうかと

随分、考えたそうです。


そんな、私たちを、共に苦しい家計の中、

母の実家がしばらく支えてくれたのです。


戦後は、そんな、父を支え、当然、私も小学2年の頃から

家の手伝いをしていました。


長男として、少しでも父が喜んでくれるなら・・・・との

子供ごころでした。


当時はそんな、家がたくさんありました。


そんな境遇でも、父母は、いつも明るく、父も健常者に負けず

必死に4人の子供達を育てました。


若い頃は登山家で、戦前の冬の富士山

上越の谷川岳、穂高のジャンダルムの岸壁など

走破していました。







良くハイキングやキャンプにも連れて行ってくれました。

それがきっかけで、私も登山をするように、なりました。


父は13年前に亡くなりましたが、障害者でありながら

自分の運命を嘆くことなく、常に明るく過ごした85年の生涯


それを、支え続けた母のお陰で、私は自分の道を

自由に歩く事が出来、現在があります。


あの時代を生きた人や、日本にとって、八月十五日は

忘れる事の出来ない、日なのです。


多くの日本国民や、他の国の人々を巻き込み

多くの命が失われた大戦から71年が過ぎました。




6年ほど前の鹿児島の知覧特攻記念館への

訪問は私の念願でした。


生きて帰ることの無い攻撃を前に、日本を想い

父母や兄弟に残した、遺書の数々・・・・


20歳前後の若者を死に追いやった、時代に

涙が溢れ、止まりませんでした。


父の左腕は、失いましたが、私達は、まだ幸せだったのだ、と

思わずにいられませんでした。




戦後を生き抜いた父母を思う、八月十五日です。




俳句


父の腕奪い八月十五日



ちちははと楽しき頃や走馬燈



父と来た峠越えれば夏穂高