(記事引用元:日刊イオより 写真朝大Newsフェイスブックより)
例えば、朝大生活の語り方について
先日、なにかの拍子にふと「朝大(朝鮮大学校)で生活したから、どこでも生きていけるよな…」と思うことがあった。この言い回しはほかの卒業生からも幾度となく聞いたし、私も友人と言い合ったことがある。
その意味をもう少し詳細かつフラットに書くとしたら、「いま振り返ると右も左も分からない環境に飛び込んで不便な点も多々あったけれど、そうした経験を積んだのだからほかの環境でもまたやっていけるだろう」というふうに言い換えられるだろうか。
仲間内では冒頭の一言で多分に伝わるものがある。実際に時間と空間を一緒にしているからだ。しかし、その感覚に慣れすぎてしまうと、「自分(たち)の中で日常的に使われる定型的な表現が、別のある場所においてはどのような意味を伴って伝わりうるか」ということに無自覚になってしまうこともあるのではないかと思い至った。
例えば冒頭の言葉。これに似たもので、冗談の度合いをさらに強めた表現として「監獄のようだった」というたとえがある。内々でこうした誇張したワードに接すると、咄嗟に笑ってしまうこともある。時代によって確かに規律の厳しさなどはあったかもしれず、なんとなく「言いたいことは分かる」部分があるからだ。
しかしこうした言葉は・・・
続きは
↑日刊イオご覧ください。