日本の子も通った朝鮮学校はこちら(毎日新聞記事より) | かっちんブログ 「朝鮮学校情報・在日同胞情報・在日サッカー速報情報など発信」

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(引用元 黄さんのフェイスブックより)※記事 毎日新聞記事より

 

 

 

 

 

↑毎日新聞記事より

 

毎日新聞4/10

 

瀬戸内、小島の「奇跡」 日本の子も通った朝鮮学校

https://mainichi.jp/articles/20240410/dde/001/040/033000c

 

 朝鮮半島にルーツを持つ子どもたちが通う全国各地の朝鮮学校。高校無償化の対象から排除され、北朝鮮によるミサイル発射実験があるたびに、心ない人から子どもたちへの暴言や嫌がらせが相次ぐ。そんな寒々しい現実がある中、かつて日本人の子どもも通っていた朝鮮学校が瀬戸内の小島にあった、という話を聞いた。「奇跡の学校」を訪ねた。

 

 まだ冷たい風が肌を刺す3月中旬、姫路港(兵庫県姫路市)から瀬戸内の小島を目指した。小さな船を乗り継いで約40分。大小40ほどの島で構成される家島諸島の一つ、西島に着いた。

 

 島には採石業者の作業員数十人が本土と行き来するが、現在は長期で暮らす住民はほぼいない。船着き場から海沿いに東へ200メートルほど歩くと、朽ちかけた木造平屋の建物があった。断りを入れて中に入ると、床の一部は抜け落ち、教壇や表面がはがれた黒板が残っていた。

 

 前身を含め1947年から69年まで存在した「家島朝鮮初級学校」。戦後、日本に残った朝鮮人たちは、民族の言葉を取り戻すために各地に国語(朝鮮語)講習所を作った。西島にも講習所ができ、やがて初級学校に発展した。ここでは、日本人の児童も一緒に学んでいたとされ、全国で唯一とみられる。

 

島ぐるみで支えた

 

 どんな歴史があったのか。「朝鮮学校の戦後史 1945―1972」(金徳龍著、社会評論社)などによると、島には20年代以降、採石業を営む日本人、朝鮮人が移り住み、最盛期は約100世帯が暮らしていたという。48年時点で、初級学校(当時の名称は、家島朝鮮小学校)に通う27人の児童のうち5人が日本人だった。近くの島には公立小学校があったが、通学のための船代を払えない世帯の要望で、日本人の子どもたちが朝鮮学校に通うようになった。必要に応じて、朝鮮語と日本語を交えて教えていたようだ。

 

 連合国軍総司令部(GHQ)の意向を受けた日本政府は48年と49年の2度にわたり、「朝鮮学校閉鎖令」を出し、各地の朝鮮学校が閉鎖に追い込まれた。しかし、西島では学校が残った。島を管轄する当時の家島町長が朝鮮学校側と話し、「問い合わせがあれば閉鎖したと報告し、学校はそのまま存続させる」と決めた。

 

 島ぐるみで学校を支え、日本人を含む採石業者が切り出す石材1トンあたり5円を集め、運営資金にあてた。59年には新校舎を建て、島で初めての電灯がともったという。

 

「校庭」は採石現場

 

 卒業生に会うことができた。神戸市に住む在日コリアン2世、成来奉(ソンレボン)さん(73)。「私のころは下級生に1人だけ日本人の女の子がいた。おかっぱ頭のときちゃん。確か、山の向こうの集落から1時間かけて通っていたなあ」。当時の全校児童は15人ほどで、休み時間は一緒に遊んでいたという。

 

 先生は1人。体育の授業ではかけっこや山登りをし、採石現場の「校庭」で運動会も開かれた。成さんは、音楽の授業で先生がバイオリンを弾く姿も覚えている。成さんは中学、高校に通うため島を出たが、実家の採石業を手伝うため再び島に戻る。「島でうまいタコが取れた時は、みんなで鉄板焼きをしてビールを飲んだっけ。地域の日本人も朝鮮人も一緒だった」

 

 関係者は、この学校の歴史を「奇跡」や「伝説」と呼ぶ。その背景には、今も朝鮮学校が日本社会へ十分に受け入れられていない現状がある。

 

学びの場、増す困窮

 

 北朝鮮がミサイル発射実験を行うたびに、各地の学校には暴言や嫌がらせが相次ぎ、インターネット上には誹謗(ひぼう)中傷の言葉が並ぶ。

 

 国や自治体も排他的な姿勢を取り続ける。2010年から国が実施した高校無償化では、中国や韓国、ブラジルなど31の外国人学校を対象に含める一方、朝鮮学校については判断を保留。13年2月に文部科学省令を改正する形で最終的に対象から排除した。これに先立ち、下村博文・文科相(当時)は12年12月、朝鮮学校への無償化について「国民の理解が得られない」と語った。理由として、日本人拉致問題での進展がないことなどを挙げた。

 

 国の動きに歩調を合わせるように、大阪府をはじめ各自治体でも朝鮮学校への補助金停止、削減の動きが広がった。橋下徹・大阪府知事(当時)は10年3月に「(北朝鮮という)暴力団とお付き合いのある学校に助成がいくのがいいのか」と発言した。

 

 外交や政治と、子どもが学ぶ権利は関係がないはずだ。無償化排除を巡っては、朝鮮学校側が国を相手取り、5件の訴訟を起こした。いずれも最高裁で学校側の敗訴が確定したが、17年7月の大阪地裁判決は「教育の機会均等と無関係な外交・政治的理由で朝鮮学校を排除している」とし、国の処分を違法・無効とした。

 

 少子化に加え、高校無償化排除、補助金停止が影響し、朝鮮学校の困窮は加速している。終戦直後は全国に500校以上あったが、近年、閉校や統合が進み、稼働中の学校は50校近くまで減っている。

 

 3人の子、6人の孫も朝鮮学校に通い、その学費を支援してきたという成さんは、学校の意義をこう語る。「日本の社会で生きていく中で、大きくなると必ず『自分はなぜ朝鮮人なのか』という問いにぶつかる。そうした時に自身に誇りを持つために、学校で言葉や文化を学ぶことは必要でしょう」。学びの場をどう守っていくのか。崩れ落ちずに今も残る木造校舎が教えてくれる気がする。