朝鮮大学サッカー部情報 789 (朝鮮学校唯一の日本人指導者 藤代 隆介氏インタビュー) | かっちんブログ 「朝鮮学校情報・在日同胞情報・在日サッカー速報情報など発信」

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朝鮮大学サッカー部情報 777 (新年の挨拶・今年の目標は?) 

 

朝鮮大学サッカー部情報 778 (動画はこちら弊部GKコーチの野口コーチにインタビュー) 

 

朝鮮大学サッカー部情報 779 (金知洋選手BrewKASHIMA2024シーズン加入内定)  

 

朝鮮大学サッカー部情報 780 (J2栃木SC朴勇志(体育学部4年)の新背番号は41番) 

 

朝鮮大学サッカー部情報 781 (J2栃木SC 朴勇志選手もチーム合流) 

 

朝鮮大学サッカー部情報 782 (J3盛岡 柳世根(体育学部4年)チーム合流)

 

朝鮮大学サッカー部情報 783 (恒例の東大検見川グラウンドトレーニング) 

 

朝鮮大学サッカー部情報 784 (申載南監督 退任のお知らせ)

 

朝鮮大学サッカー部情報 785 (申載南監督 コメントはこちら退任のお知らせ②)

 

朝鮮大学サッカー部情報 786 (新監督はなんとこの方・・・就任コメントはこちら) 

 

朝鮮大学サッカー部情報 787 (黄永宗ヘッドコーチが退任のお知らせ) 

 

朝鮮大学サッカー部情報 788 (新監督は藤代隆介氏が監督に就任②)

 

↑の続き

 

 

朝鮮大学サッカー部情報2024

 

 

以前ブログでもアップしましたが

 

 

藤代新監督の3年前の記事

 

 

ご覧ください。

 

 

 

image

(引用元:iudaより) 

 

【“朝鮮学校唯一の日本人教員”はなぜ 異なるルーツの教育現場に18年間も立ち続けたのか?】

元北海道朝高サッカー部監督 藤代 隆介氏インタビュー

 

 

 

 

↑iuda 記事より(3年前の記事より)

 

 

朝鮮学校唯一の日本人教員として民族教育の現場に立ち続けた藤代 隆介氏は、"怒涛の18年間"をこう振り返った。

   

 「ただひたすらに突っ走った18年間でした。徹底的に目の前の学生、目の前のウリハッキョ(朝鮮学校)と向き合う日々。目の前のこの子たちが社会で逞しく生きていく為にはどうすればいいのかと、模索しながら毎日を過ごし、気が付くと18年も経っていました」。

 いち教育者として、いちサッカー指導者として、在日同胞社会や日本社会に想いを寄せながら愚直に未来を切り開き続けた。時には反発も喰らい、時にはもどかしさを感じることもあった。しかし何故、自身のルーツとは異なる教育の場で、周囲を惹きつけるほどの熱量を持ち続けることが出来たのだろうか。

 そこにはどのようなアイデンティティがあったのだろうか。

 

現在、北海道サッカー協会と契約を結び「北海道サッカーFAコーチ」として活動する(日本サッカー協会S級ライセンス保持者)

 

 

 藤代氏が監督に就任し間もない頃。一人の選手が試合終了直後に泣いていた。「どうした?悔しいのか?」と、藤代氏。

 すると、思いもしない言葉が返ってきた。

   

 「国に帰れと言われました」。

 

 なぜこういうことが起きてしまうのか理解に苦しみ、動揺を隠せなかった。しかし、この出来事が藤代氏の心を更に動かすこととなる。

 

 「当時指導者としての力がなかった僕は彼らを守ることができなかった。自分が無力で悔しくて悔しくてたまらなかった。なぜサッカーを純粋に楽しみたい子供たちが、こんなにも辛い経験をしなくてはいけないのか。怒りの感情を覚えると共に、『決して社会に屈することのない人間を育もう』という決心が芽生えてきました」。

 

「これまでの人生、こんな人に出会ったことがない」。北海道同胞の熱意に押されて

 

ーー本日はよろしくお願い致します。まずはじめに、指導者を志したきっかけを教えてください。

 

藤代:「帝京高校を卒業した後にサッカーに携わっていきたいという思いがあって、サッカーやスポーツを体系的に学ぶことの出来るルネス学園に進学しました。ルネス学園を卒業後、同校に残り指導者としてキャリアを歩み始めたんですが、ルネス学園が指導者としてのスタートですね」

 

ーー当時はどのようなキャリアを計画していましたか?

 

藤代:「漠然としていましたが、指導者としてのステップアップを徐々に踏めていければいいなと、いくつかの選択肢を持ちながら毎日の指導にあたっていました」

 

ーーでは、北海道朝鮮初中高級学校サッカー部監督に就任されたのには、どのようなきっかけがあったのでしょうか。

 

藤代:「ある時に出会った北海道出身の在日コリアンの親友との出会いがきっかけです。彼からは本当に多くのことを学んだんですが、僕がそれまでに出会ってきた日本人とは違った感覚を持っていて。『僕は在日コリアンであり、こんな考えを持っている』と、自分のルーツや価値観を日本社会の中でも迷いなく主張できる人間でした。僕が知らないこともたくさん知っていましたし、同い年ながらにコイツはすげーなと。こんな奴には会ったことがないという衝撃があったんです。

そんな彼から、『北海道の朝鮮学校のサッカーを強化してくれないか?』と打診され、行ってみたいという気持ちが湧いてきました」

 

ーー迷いなどはなかったのでしょうか。

 

藤代:「帝京高校時代から東京朝高とは頻繁に練習試合をしていましたし、当時の帝京高校の監督も東京朝高には一目を置いていました。僕自身の中でも手強い印象があって、当時から在日コリアンという存在に興味を持っていたんです。

あとは就任する前に何度か北海道に足を運んで、僕のことを招いてくれた父母会の役員の方々や、校長先生にお会いして話をしたんですが、朝鮮学校や在日同胞社会への熱意がひしひしと伝わってきて。『誰かのために』といった犠牲精神を目の当たりにして、この人たちの熱意に応えられるかどうかは分からないけれど、やってみたいという気持ちが確信に変わりました」

 

ーー周囲からの反発もあったのでは。

 

 

 

 

 

↑続きはiuda 記事より(3年前の記事より)

 

 

 

 

 

 

※また情報入りましたらアップします。

 

 

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