「日本に勝てるスポーツ」だった戦前の朝鮮サッカー | かっちんブログ 「朝鮮学校情報・在日同胞情報・在日サッカー速報情報など発信」

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(引用元 Yahooニュースより)


「日本に勝てるスポーツ」だった戦前の朝鮮サッカー





↑Yahooニュース現代ビジネスより


日本の植民地支配下にあった第2次世界大戦前の朝鮮でも、スポーツは盛んに行われていた。1920年代に入ると、それまで朝鮮人のスポーツを抑圧してきた朝鮮総督府もスポーツを奨励するようになる。朝鮮統治の成功を示すためだったのだろう。


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 1936(昭和11)年のベルリン・オリンピックのマラソンでは朝鮮出身の孫基禎(ソン・キジョン)が日本代表として優勝。南昇竜(ナム・スンリョン)も銅メダルを獲得した。京城(現在のソウル)で発行されていた有力紙『東亜日報』が孫基禎の胸の日章旗を塗りつぶした写真を掲載して発行停止処分を受けた事件は有名なエピソードだ。


 スポーツの勝敗が民族意識を高揚させるのはいつの時代も同じだ。まして、日本の支配を受ける朝鮮では日本人選手との戦いはとくに大きな意味を持っていた。


 当時の朝鮮でも野球やサッカーの人気は高かった。


 大きく違っていたのは、野球は現地の日本人の間でも盛んだったことだ。朝鮮代表として夏の甲子園に5度も出場した京城中学は日本人学生向けの旧制中学校だったし、実業団でも竜山(ヨンサン)鉄道管理局のような強豪が大学野球のスターだった日本人選手を入団させることもあった。


 そうした日本人チームとの野球の試合はビッグイベントだった。


 一方、サッカー(蹴球)の方は朝鮮人の間では人気が高かったが、現地日本人はほとんどプレーしていなかった。現地の日本人に好まれたのは野球とテニスだったようだ。


「全国大会」の始まり


1919(大正8)年に朝鮮在住の日本人によって「朝鮮体育協会」が結成されると、翌1920(大正9)年には朝鮮人の団体として「朝鮮体育会」が結成された。「体育協会」と「体育会」。名称が紛らわしいが、両社はまったく別の団体で、日本人と朝鮮人のスポーツをそれぞれ統括していた。


 1920年代の初め、日本本国には大日本体育協会(現在の「日本スポーツ協会」の前身)が存在していたが、各競技ごとの「協会」はまだほとんど結成されていなかった。最も古い競技別団体の一つ「大日本蹴球協会」(現、日本サッカー協会)でも、結成は1921(大正10)年9月のことだった。


 朝鮮でも事情は同じで、朝鮮体育会はもともと野球人中心の組織だったが、各競技の全国大会を主催し、1921年には全朝鮮蹴球大会も始まった。


 1925(大正14)年には日本で毎年秋に開催されていた明治神宮競技大会の朝鮮代表を選ぶ予選会として朝鮮神宮競技大会が始まった。総督府主導で日本人も朝鮮人も参加する大会であり、陸上や水泳などとともに野球もサッカーも行われ、サッカーでは朝鮮人チーム同士が優勝を争った。


 サッカーでは日本人の強豪チームは存在しなかった。朝鮮のチームが全日本選手権(現在の天皇杯)や明治神宮競技大会に出場して日本チームと戦うことはあったが、朝鮮のホームで日本人チームと試合をすることはほとんどなかったのだ。


 もちろん、代表チーム同士の国際試合もなかった。


 サッカーの国際試合というのは国際サッカー連盟(FIFA)に加盟する各国のサッカー協会が認定した代表チーム同士の試合のことだ。そして、FIFAは「一国一協会」を原則としている(サッカーの母国、英国にはイングランド、スコットランドなど4協会が加盟しており、香港やプエルトリコなど自治権を持つ海外領土などが加盟している例もあるが、これは例外だ)。


 1933(昭和8)年には競技別統括団体として朝鮮蹴球協会(現在の大韓蹴球協会の前身)が結成されたが、朝鮮は日本の植民地統治下にあったのでFIFAには加盟できず、当然、国際試合の開催も不可能だった。


当時の国際大会事情


話は横道にそれるが、スペイン北東部のカタルーニャは独特の文化や言語を持ち、独立運動も盛んな地方だ。時折、サッカーのカタルーニャ代表も結成され、FCバルセロナの選手たちも加わるので実力は高い。だが、カタルーニャは独立国ではないので、カタルーニャ代表の試合はFIFA非公認の“国際試合”でしかない。


 しかし、そんな時代でも、日本代表が朝鮮を訪れて地元チームと試合をしたことがないわけではなかった。


 日本代表が初めて朝鮮を訪れたのは1927(昭和2)年9月のことだった。中国の上海で行われた第8回極東選手権大会に出場した日本代表が、帰国の途中、朝鮮に立ち寄ったのだ。


 「極東選手権大会」というのは、日本、中国、フィリピンが参加して1913(大正2)年に始まった総合競技大会で、陸上や水泳、テニス、サッカー、野球など様々なスポーツが行われた。


 当時、中国の香港は英国植民地だったし、中国各都市には欧州列強が支配する租界が存在しており、スポーツも欧州の影響を受けていた。また、フィリピンも米国統治下にあったのでスポーツのレベルは高く、日本は野球以外のボールゲームでは両国に敵わなかった。


 サッカーも、初参加の1917(大正6)年大会以来負け続けだった。1917年大会で、日本はフィリピンに2対15というスコアで惨敗している。


 当時は全国から優秀な選手を集めて選抜チームを作ることが難しかったので、国内予選で優勝したチームが補強選手を加えて日本代表として戦っていた。日本だけではない。中国代表は、ほとんどの大会で香港の南華体育会(英語名称はサウスチャイナ)だったし、フィリピンも国内の強豪クラブが代表として参加していた。


「日本人に勝てるスポーツ」


1927年大会で日本代表となったのは国内予選を勝ち抜いた早大WMW。早稲田大学の現役学生とOBによるチームだった。そして、1927年の上海大会で日本(早大WMW)はフィリピンを2対1のスコアで破った。日本のサッカー界にとって、国際試合での初めての勝利だった。


 その日本代表(早大WMW)が上海からの帰途、朝鮮蹴球協会の招待で朝鮮を訪れたのだ。


 まず平壌に立ち寄った早大WMWは崇実(スンシル)専門学校(現在はソウルにある崇実大学校の前身)に3対2で勝利。第2戦では平壌戊午(ボオ)団と4対4で引き分けた。そして、京城に乗り込んだ早大WMWは延禧(ヨンヒ)専門学校(延世=ヨンセ=大学校の前身)、朝鮮蹴球団と対戦。0対4、1対3のスコアで連敗を喫した。


 「朝鮮蹴球団」というのは、代表チームではなくセミプロ的なクラブチームだが、「朝鮮」を名乗るチームと日本代表の試合は大きな注目を集め、試合を後援した『東亜日報』は「朝鮮の蹴球史上未曾有の大競技」と大見出しを付けて予想記事を載せている。


 注目の一戦だったが、試合開始からわずか3分で金允基(キム・ユンギ)が先制ゴールを決め、朝鮮蹴球団が3対1で快勝した。


 8月末の極東選手権を戦った早稲田WMWは、大会終了後に満洲の大連を経て朝鮮を訪れ、平壌で2試合を戦った後、9月16日の夜8時に京城駅に到着。翌17日に延禧戦、18日に朝鮮蹴球団戦という強硬日程で疲労の色が濃かったようだ。だが、京城での試合で朝鮮チームが連勝したことで、「日本人に勝てるスポーツ」としてサッカー人気はますます高まっていった。

後藤 健生(サッカージャーナリスト)