6月25日は朝鮮戦争(※)が始まった日だ。73年前の同日午前4時、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)の朝鮮人民軍は4つの方面から一斉に南下し韓国を攻撃した。
その後約3年間、米国や中国、ソ連までも参戦した血で血を洗う戦争は53年7月27日にようやく休戦協定が結ばれ今に至る。朝鮮戦争をどう考えるべきかをあらためて整理した。
※戦争の名称について、韓国では「韓国戦争」や「625戦争」、北朝鮮では「祖国解放戦争」と呼ばれる。英語では「Korean War」だ。本記事では日本で一番なじみの深い「朝鮮戦争」とする。
●ある歴史学者の指摘
6月23日、韓国の歴史学者・姜萬吉(カン・マンギル)高麗大名誉教授が亡くなった。90歳だった。
生涯を通じ歴史と人間社会の進歩、そして南北「分断時代」の平和的な清算を求め続けた著名な人物だ。韓国メディアには「巨木たおれる」という表現が並んだ。
私は生前の姜萬吉氏にお会いしたことはなかったが、いくつかの著書に触れたことがある。死去の一報を聞いてまず思い浮かんだのが、以下の文章だった。
韓国で09年に出版された『20世紀私たちの歴史』という本に出てくる一節だ。市民に歴史を教える講義録の形を借り朝鮮半島の現代史を読み解くもので、姜氏は朝鮮戦争を「民族統一戦争」と捉えたのだった。
韓国では一般的に、朝鮮戦争は北朝鮮の攻撃とそれに対する反撃という視点から語られる。見落としがちな視点であるため、印象に残った。
背景には数度にわたる朝鮮戦争の中での戦線の移動がある。
50年6月25日に南侵を始めた北朝鮮軍は破竹の勢いで南下を続け、わずかひと月あまりで韓国の国土の約92%を占領する。
一方、開戦後すぐに米軍は朝鮮半島に兵力を派遣する。翌26日には既に米軍のジェット戦闘機が制空権を得るための作戦を開始していた。並行して国連安保理で国連軍の派遣が採択され、米軍を中心とする国連軍の先鋒は開戦後一週間後には韓国に上陸していた。
しかし韓国・国連軍は洛東江防衛戦と位置づけた南東部に釘付けとなり防戦一方の状況が続いた。
戦況が一変したのは9月15日だ。朝鮮半島中西部の仁川(インチョン)に上陸し、同28日にはソウルを奪還するなど戦線を一気に開戦前にまで押し戻すことに成功する。
●「鴨緑江の水で銃刀の血を洗う」
同じ時期、国連軍(米軍)に「北進」をめぐる問題が持ち上がる。開戦時の南北の「国境」は現在の南北にデコボコな軍事境界線ではなく、北緯38度線という45年8月に米ソにより引かれた直線だった。
この線を越えて北朝鮮側に攻め入るのか、それとも「戦争以前の状態に戻す」という従来の決議に従い、支配地域を回復する目的を達成したと見なし進軍を止めるのかという選択があった。
中国は当時すでに「強大国が隣接する国家の領土に侵入した場合、中国人民は決して傍観しない」(周恩来)と国連軍が38度線を越えることに対する警告を繰り返していた。
しかし「中国軍の介入はない」と見通したマッカーサーの進言により、9月29日トルーマン米大統領は米軍の38度線突破を許可する。「中国と交戦しない」「中朝国境地域には韓国軍だけが進出する」という条件付きだった。なお、韓国の李承晩(イ・スンマン)大統領は一貫して強固に「北進」を主張し続けていた。
これにより韓国東部・江原道(カンウォンド)江陵(カンヌン)地域から北上した第三師団がまず38度線を越える。さらに第一師団や第六師団や加わり「誰が最も早く鴨緑江に到達するのか」の競争となる。鴨緑江とは中朝国境を分かつ川だ。ちなみに「北進」を記念する10月1日は韓国で『国軍の日』という国家記念日に指定されている。
10月7日、国連総会で国連軍が38度線を越えることを許可する決議案が採択されると、韓国軍に続き米軍も「北進」を開始する。同19日には韓国軍第一師団が北朝鮮の首都・平壌に入城し、翌日には国連軍も到達する。
そしてついに同26日、韓国軍第六師団が鴨緑江に到達する。川の水を水筒に込め、李承晩大統領に献上した記録が残っている。10月30日、李承晩大統領は平壌で歓迎大会を開催する。当時のニュースを見ると「鴨緑江の水で銃刀の血を洗う」という表現を目にするが、好戦的な韓国政府の雰囲気が濃厚に表れている。
そんな中、マッカーサーは10月20日に「北進限界線」を鴨緑江以南60キロまでと定め、さらに24日には全軍に「鴨緑江までの進軍」を許可する。
米軍第七師団は11月21日に鴨緑江の河畔にある恵山(ヘサン)に到達する。米兵がイースターを記念し配給された七面鳥をかじりながら、氷を張った鴨緑江を間に中国軍と対峙する姿が映像に残っている。
↑続きはこちら
※北側・南側の見方が完全に
分かれますが双方見ておくのも
必要かと思います。