あの海の向こうに ~植民地で朝鮮人の子どもたちを教えた先生~ | かっちんブログ 「朝鮮学校情報・在日同胞情報・在日サッカー速報情報など発信」

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(引用元:朝日新聞記事より)
 
 
 
 
 
[8/16 朝日新聞]2人は学校に戻らなかった 「皇国臣民」を育てる教壇で
 
あの海の向こうに ~植民地で教えた先生~③(全5回)
 
 太平洋戦争が始まる1941(昭和16)年の春、杉山とみさん=富山市=は植民地朝鮮の大邱で初めて教壇に立った。朝鮮人の子どもたちが通う達城国民学校で4年生を受け持った。
 
 朝鮮語の使用は絶対禁止。皇居の方角に頭を下げる「宮城遥拝(ようはい)」、天皇皇后の御真影と教育勅語をおさめた奉安殿への最敬礼を繰り返させた。「私共は心を合わせて天皇陛下に忠義を尽くします」などと声をあげる「皇国臣民ノ誓詞」の復唱も連日させた。
 
 2年目には1年生の担任に。入学式の日、杉山さんは新入生の服の胸部に、創氏改名した日本式の氏名を書いた名札を縫い付けた。
 
 〈創氏改名〉朝鮮総督府が皇民化政策の一環で1939年、朝鮮民事令を改正し、40年に実施。朝鮮の姓名から日本式の氏名にするよう求めた。伝統的に祖先を重用する朝鮮の人々に対し、応じなければ不利益を被るとして職場や学校などを通して届け出を迫った。
 
 運動場での青空教室。杉山さんが「すわりなさい」と呼びかけると、子どもたちは「スワリナサイ」と声をそろえてまねした。1年生はまだ日本語が分からなかった。「一日も早く日本語を覚えさせなければ」。そんな思いを強くした。
 
 いま、杉山さんは「子どもたちはどんなにもどかしかったでしょう」と想像する。不慣れな日本式の名前で呼ばれ、何よりも自分たちのことばを口にできず、つらかっただろうと。
 
 学校行事は戦争色が濃くなっていた。学芸会では、後醍醐天皇のために命を奉じたと敬われた武将、楠木正成が主役の「大楠公(だいなんこう)」を子どもらに演じさせた。戦地の兵隊に送る慰問袋に入れる絵巻物も作らせた。軍部に献上する「国防献金」のため、松笠拾いやタニシ捕りをさせた。
 
 国民学校には朝鮮人の教員もいたが、待遇に差があり、日本人だけ上乗せの手当があった。新任の杉山さんの給与は、家庭をもつ朝鮮人の先輩より高かった。
 
 職員朝礼は校長室の神棚の前であり、楠木正成が後醍醐天皇への忠義を詠んだという歌を全員で朗詠し、心身を引き締めた。
 
 戦時統制が強まるなか、衝撃的な出来事が起きる。
 
 日本の憲兵が突然、学校にやって来て、2人の若い朝鮮人の男性教員を連行したのだ。ほかの教員に何ら説明はなく、2人が学校に戻ることもなかった。
 
 憲兵隊は日本支配に抵抗する独立運動に目を光らせていた。朝鮮の言語や文化を消し去ろうとする「皇民化教育」の一端を担わされながらも、日本人には明かさない秘めた思いがあったのだろうか。
 
 日本の敗戦による解放後、杉山さんは、このうちの1人の先生が「独立準備委員会」という腕章をしている姿を目にする。
 
 朝鮮人を立派な皇国臣民にしようとする学校生活で教え子たちの脳裏に長く刻まれた授業があった。
 
 4年生女子の裁縫の授業。日本と朝鮮では針の運び方や継ぎ布のあて方も異なるが、和裁の基礎を教えるよう求められていた。
 
 あるとき、子どもたちが「ポソン」の縫い方を教えて欲しいと声をあげた。つま先がとがった長靴のような形をした朝鮮の足袋だ。生活に根ざした裁縫の方が子どもたちの役に立つだろうと、杉山さんは日本語が堪能な母親に学校に来てもらい、一緒に授業をした。
 
 「あくまでも秘密の型破りな授業でした。校長に知れたら呼び出されて大目玉をくらったか、始末書ぐらいは書かされたでしょう」と杉山さんは話す。
 
 そんな授業をしたこともすっかり忘れていた。
 
 戦後三十余年たち、教え子たちと韓国で再会して思い出を語り合ううち、「杉山先生、学校でポソンを縫いました。私たちはよく覚えていますよ」と言われ、はっと思い出した。
 
 国民学校で、子どもたちの願いに少しでも応えようとしていた若い日の自分の姿がよみがえった。
 
 ことばも、名前も、生活習慣も。何もかも日本式を子どもの意識に植え付けようとした皇民化教育。当時は教師の責務と信じこみ、日々の授業に打ち込んだ。
 
 しかし、振り返ると、内心は少しは疑念を抱いていたのかも知れない。そんな自分にほっとした。(中野晃)