東京朝高サッカー部 高校サッカー選手権でベスト4 / 下(朝鮮学校百物語より) | かっちんブログ 「朝鮮学校情報・在日同胞情報・在日サッカー速報情報など発信」

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東京朝高サッカー部 高校サッカー選手権でベスト4 / 上

 
 
↑の続き

 

 

 

朝鮮学校百物語FBより 6月10日 15:13) ↑朝高サッカーの活躍を報じる日本の新聞

 

 

 

 

vol.27高校サッカー選手権でベスト4/下
 

 

 

東京朝高サッカー部
(月刊イオ2017年6月号に掲載)

 

 

 

●実力トップの“無冠時代”

 

 

 

第33回全国高校サッカー選手権大会でベスト4という快挙を遂げた東京朝鮮高級学校サッカー部だったが、大会参加はこの一回切り。大会の要項に出場資格の制約が入ってしまったのだ。
実力を試す機会を失った朝高選手は大きく落胆する。

①青学の鈴木キャプテン

 その予兆は東京朝高サッカー部が全国大会出場を決めた時からあった。朝高が都予選の決勝を制して間もない54年12月16日、報知新聞は「朝鮮高参加〝待った〟」という見出しで大阪の高体連(全国高等学校体育連盟)から朝高の全国大会出場に横やりが入ったと報じている。当時東京都高体連理事だった松浦利夫氏(のちに高体連サッカー部部長:71~75年)の回想(「79高校サッカー年鑑」)だ。

 「…青学も石神井も振るわず惜敗し、朝高が優勝してしまった。全国大会の組み合わせが新聞に出た。早速全国高体連の故星会長にまず電話で叱られた。『高体連は日本の高校生のためにあるんだ。何をやっているのだ』といわれたように覚えている。電話では細かいことが話せないので放課後九段高校に行った。

 そして『同じ都立高校であるということ』と『外国籍の選手の出場制限の規定はない。今から取り消しはできない』と説明した。『仕方がない。認めよう』。すぐ事務局長の故佐藤省吾先生を近畿に派遣して高体連の了解を得させた」

 55年4月には東京朝高は都立から自主学校に移管。年度が変わった55年4月16日、東京都高体連の総会および各部会が九段高校で開かれ、「朝高の加入問題」が議論されることになる。この会議には各サッカー部のキャプテンが参加。松浦理事は、青山学院高等部サッカー部主将の鈴木洋一さん(80)を指名し、「どう思うか」と意見を聞いた。前年の全国大会都予選決勝で朝高に2―0で負け、悔し涙を飲んだその人である。鈴木さんは、大会予選で朝高のプレーを見ていた。「重心が低く、ねばっこくて強い足技、一気に逆転するその勢いといい、まれにみる瞬発力に優れた強いチームだと思った」。

 会議で鈴木さんは自分の考えを伝えた。「スポーツに国境があってはならない。外国人だということ、強すぎるということで朝高をオミットすることはできない。強いチームは全体のレベル向上のため必要だし、今度こそ勝ってやろうという気にもなる。青学高は朝高の継続加盟を要求します」。
「会議が終わると、朝高の金世炯監督と李東揆主将(のちに朝鮮に帰国)が私の所にいらして、『鈴木さん、ありがとう! ほんとうにありがとう! 鈴木さんの意見を聞いて感動しました』と言われ、お二人とガッチリ握手を交わしました」(鈴木さん)

 しかし、この努力もむなしく大会要項に「外国人のみを収容している学校の参加は認めない」という参加制限がつき、朝高は大会から締め出されてしまう。以来、朝高の全国大会出場は94年までの歳月を待たなければいけなかった。松浦部長は、「選手にとっては誠に気の毒なことになってしまった」と述懐している。

 

 

 

東京朝鮮高級学校と青山学院高等部との第5回定期戦
(1957年11月、写真提供=金明植さん)

 

 

 

②始まった強豪校との定期戦

 

 


 
当時の選手たちはどれほど落ち込んだだろうか。1年時に全国大会に出場した金明植さん(78)は、「試合に飢えていた」と失意にあった当時を振り返る。実力は全国クラスにも関わらず、それを試す場もない。しかし、互いに切磋琢磨したいと願う、選手と指導者の思いは結実した。前述の会議で鈴木さんの言葉に感動した金監督が、「この感激を忘れないために青学高と定期戦をやってもらえませんか」と青学に申し込み、55年春から両校は春と秋の年2回、定期戦を組むことになった。

 59年12月6日には、第1次帰国船で朝鮮民主主義人民共和国へ帰国することになった朝高の選手を見送るため、青学は壮行試合を企画している。

 「後藤青山学院高等部教頭が『日朝両国の国交が回復した時には、晴れの国際試合としてこの定期戦をやりたい』とあいさつすれば、『いつの日にか首都平壌にみなさんをお招きしたい』と南日竜朝鮮高校長…」(「朝日新聞」1959年12月7日付)。試合は3―0で朝高が勝った。青学との定期戦は86年6月まで38戦を闘い、朝高の37勝1敗の戦績になっている。

 60年代から「朝高参り」という言葉があったように、朝高が全国大会の代表に選ばれた強豪に圧勝する時代が続いた。「無敵の東京朝鮮中高級学校」と日本のメディアをにぎわせた、あの時代だ。

 

 

 

1974年2月、朝鮮の「4・25蹴球団」が日本サッカー協会の招待で来日した

(写真左が金明植さん、提供も)

 

 

 

 

③1972年には初の祖国訪問

 

 

 

 

 前述の金明植さんが、同校サッカー部の第3代目の監督に赴任したのは1971年。金さんは朝高卒業後に進学した中央大学でもサッカーを続け、同校の大学選手権初優勝に貢献、さらに大学卒業後は在日朝鮮蹴球団でキャプテンを務めあげた。トップランナーとして走り続けた金さんが監督として目指したこと―それは、技術と戦術の浸透だった。

 「チームが強くなる要素は、技術、精神力、パワープレーにある。練習の前半にボールコントロール、ボディバランスを育てるメニューを組み、後半はパス、ドリブル、シュートの練習を徹底した。1年生で技術の基礎を身につけ、2年で戦術を理解できるように育てたかった。何より当時の子どもたちは専門的な指導に飢えていた」

 55年の「全国大会ベスト4」がもたらした日本の強豪校との定期戦は続いていた。青学、帝京、習志野、浦和、清水東、山梨、室蘭大谷などの強豪が、全国大会の前に朝高と試合を組み、力試しをする。中でも関係が深かったのは帝京と習志野だった。

 71年度の高校選手権で優勝した習志野高校の「習友会」は、72年5月に朝鮮を訪問している。その2ヵ月後の7月には東京朝高サッカー部が祖国を初訪問し、金日成競技場を埋めた大観衆の前で現地の高校と試合をし、専門的な講習も受けた。「1966年のロンドンワールドカップでベスト8に輝いた朝鮮サッカーは私の目標であり、憧れでした」(金さん)。

 祖国訪問で勢いを得た朝高サッカー部の快進撃は止まらなかった。帰国後、日本の強豪校が集う全国高校サッカー親善試合(清水フェスティバル)で準優勝、東京選抜に圧勝という戦績をあげる勢いを見せ、「8・18世代」と語り継がれる名チームがここに生まれた。

 この間、日本の強豪校の監督たちが朝高の公式戦参加を求め、署名を集めてくれた。金さんは門戸が開かれるその日を目指し、試合記録や朝高が紹介された新聞やサッカー専門誌の記事を一冊にまとめている。87年に金さんが朝高の監督を退任したとき、「感謝する会」を企画した習志野高校の西堂就監督は次のような言葉を送った。

 「…多くの日本の監督が朝高との交流試合を通し、胸をかり、金先生に自分のチームを見ていただき、その距離を計り、何らかのチーム指導の目安と自信をもってチーム強化に精進に励まされてきた…。金先生率いた朝高サッカー。…これからも、何時までも日本の高校サッカーのカンパスであり、スターであり、憧れであってほしい」        (おわり)