これからの感情の話をしよう,感情の正体,真我の望み,自我の望み,感情はシグナル

こちらの記事で、読者の方からの
コメントとのやりとりをしていて、

『感情』というものに対しての
質問を受けたので、解説していきます。


参考記事:
真我(魂)と対話して自分の本当の望み(使命・天命・お役目)を知る方法 現実との調和


こういう意見の交換、『意識の共有』
はホントに有意義だと感じますね。



マイケル・サンデル教授の
『これからの「正義」の話をしよう』

じゃないけど、


『これからの「悟り」の話をしよう』

みたいな感覚ですね(笑)。


今日は『感情』のお話になるわけですが。



コメントでのやり取りで気づいたのは、

『感情には理由のあるもの、ないものがある』

ということでしたが、それを一日ほど
自分の中で寝かせたら、『感情』という
ものについて体系的に語れそうな気が
してきたので挑戦してみます。




『感情』というものは、本来の、

『真我からのシグナル』

である一次的な感情と、それを自我の思考
が加工する、二次的なものに分けられます。



『真我』からの直接シグナルである感情は、

『快』or『不快』の二種類です。



『快』は動機(許容)となり、
『不快』は抵抗となります。



動機とは、思考や行動を生み出す源
ですが、これは真我の意志(流れ)を
『許容』することだと言えます。


ゼロから自発的に何かを始めるのではなく、

『許容』することによって、自然の
流れに身を任せるので、それに沿って
思考や行動が生まれる、ということです。


これも、真我:現実が主体で、
自我が揺れ動く不確かなもの、


という視点を持てば正しく理解できますね。



『快』の感情が思考につながったものが、

『ひらめき』『直感』『気づき』

と表現できるもので、


よりエネルギーを持ち、行動につながる
もののことを『衝動』と表現できます。



心の底から湧き上がる『快』『不快』
以外の感情は、すべて自我の思考による
『二次創作物』と言えます。



自我レベルの願望や欲求、喜怒哀楽
といったものも、すべて、一次的な
感情である『快』『不快』を受けて、

過去の記憶(観念)に支配された思考
が加工した、二次的な感情なのです。



何かの出来事、人の行動を受けて
怒ったり悲しんだりするのは、

『不快』を思考が加工した結果、


喜んだり楽しんだり、というのも、

思考が『快』を加工したもの、と言えます。



たとえば、『怒り』の背景には
何かへの『不安』『恐れ』があり、
さらにそれの元をただせば、

真我から来る『不快』にたどり着きます。



一次感情と二次感情の区別は、

その感情に『理由がある』のか
『理由がない』のかでわかります。



自我の思考による二次創作物には、
必ず何かの『理由』があるのです。


『理由』を創るのは自我のしわざなので、

本来の真我からのシグナルである一次感情
には、『理由』なんて存在しないのです。



考えてみたら、自我のない赤ちゃんの
感情は、まさにこの二種類に集約されますね。

シンプルに

『快』⇒ 笑う
『不快』⇒ 泣く


だけです。




引き寄せの法則にも絡めると、

『自我レベルの願望』にはすべて
『理由』がある
ということに気づきます。


お金が欲しい

愛が欲しい

満たされたい

豊かになりたい



どれも、いま自分が感じている
『不快』
から発する願望です。


『欠落』にフォーカスした願望ですね。



これに対し、『真我の望み』は、
理由のない『快』という動機に
基づいたもの、ということです。



なので、『衝動』と、思考の産物
である『欲求』との区別は、『理由』が
あるかないか
、でわかるということです。



もう一ついうと、ネガティブな衝動、
というのは、ここで僕が定義している
『衝動』とは種類の違うものだと言えます。



ネガティブな思考・行動というものは、

真我からの『不快』のシグナルを、
自我の思考が勝手に加工して、
無理やり動機につなげたものです。


『不快』を避けるために、

こうすれば楽になれるんじゃないか、

と勝手な解釈をつけて、
それを動機にする、ということです。



『不快』のシグナルを受けたときは、
自我の思考であれこれと考えても
解決にはつながりません。


『視点』を変えて、感覚を研ぎ澄まし、
『快』のシグナルを拾うことに集中するのです。


思考を使うとすれば、『視点』を切り替える
ための質問
を自分自身にするのがいいでしょう。


たとえば、

『いま、自分が与えられるものはなんだろう?』

という質問は、なかなかに効果的だと思います。
その根拠はこの後に述べます。




一次感情は、自我:思考を超えた
ところからやってくるため、
『言葉』にはしにくいものです。


『言葉』は具体性が高すぎるので、
抽象度の高い一次感情を収めるのは、
難しいということです。


なので、思考を飛び越して『行動』
につながりやすい、という特徴があります。



それが『衝動』です。



真我の『快』というシグナルを
動機にした衝動は、

『与える』

という形をとります。



真我の流れに身を任せるので、
自然の摂理に沿った形になるのです。


『与える』その対象は、他者であったり、
また、自分自身ということもあります。



エーリッヒ・フロム著の
『愛するということ』では、

『愛とは与えること』だと語られています。






『与えること』は、あなたの
生きる力のもっとも高度な表現なのです。


『与える』という行為を通じて、
あなたが生命力にあふれ、惜しみなく
消費し、いきいきとしているのを実感し、
それゆえに喜びをおぼえるのです。


与えることはもらうことよりも喜ばしいことです。

『与える』という行為があなたの
『生命力の表現』だからです。



『与える』という行為によって、
あなたの喜び、興味、理解、知識、ユーモア、
悲しみなど、あなたの中に息づいている
ものの、あらゆる表現を与えるのです。


このように、自分の生命を与えること
によって、人は他人を豊かにできます。

あなた自身の生命感を高めることに
よって、他人の生命感を高められるのです。




『無償の愛』というのは、まさに
これの代表的なものですね。



こういう『衝動』は、動物なら何でも
持っている『本能』とは異なるものです。


人間だからこそ持つもの、人間が
本来持つ『善性』とも表現できます。



理由も見返りもなく何かをしてあげたい、
与えたい、というのが『愛』『慈悲』です。


理由も見返りもなく人を攻撃したい人
なんて、この世には存在しないのです。


何かを攻撃したり、奪おうとする
背景には、必ず自我が創りだす、
なんらかの『理由』があります。




人が人を傷つけたり、戦争が起こるのも、
すべては『理由』があるのです。


自我を持たない動物は、『食べるため』
以外の理由で、

たとえば『攻撃したい』とか『壊したい』
という欲求で他の動物を殺したりはしません。



人類の歴史、文明の歴史というものは、
『自我の歴史』でもあるため、戦争や、
血なまぐさい出来事の連続と言えます。


ただ、その評価、『解釈』も自我によるものです。


『観念』のフィルターを外せば、
人間もまた、自然の一部であり、
それ以上にもそれ以下にもなり得ないのです。




僕個人は、人間の本分は善性である
ということは間違いないと思っています。


『善性』という言葉、表現も自我の
貼ったラベルに過ぎないのですが、
ここでは置いておきましょう。


昔の人は、

『善い行いをしたとき、心が
 温かくなるのは神がいる証拠だ』


と考えたようですが、その
解釈は正しいと思っています。




『善行』と表現できるような
行動は、真我からの『快』のシグナル
に基づいたものであり、

人間が、そのシグナルを『快』
受け取ること自体が、『生命の本質』
『自然の摂理』
に沿うことなんだと思います。



つまり、『衝動』とは人間の善性、
自然の摂理に結びつくものであって、


あなたが生命力の表現として
『与える』こと
、また、それは、


『調和』『愛』『豊穣』『拡大』『成長』


という言葉で表現できるものなのです。




ブログランキング参加中!

この記事を読んで、役に立った、
気に入ったという方は、

ぜひ、クリックをお願いします^ー^

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ





【公式YouTubeチャンネル】
左脳系スピリチュアルチャンネル


こちらからチャンネル登録
お待ちしています(*´Д`*)b


※電子書籍を無料プレゼント!
この画像をクリックしてください。
スピリチュアル法則と<br /> 情報発信で豊かに成功する方法


【サトリの著作一覧はこちら】
https://amzn.to/2ob20aC

AmazonKindleアプリにて
『読み放題』で読めます^ー^