三月は卒業シーズン。
テレビ画面に、大学構内ではガウンを身にまとった男子学生がにこやかにインタビューに答え、街中では袴を身に着けた女子学生たちの晴れやかな姿が映し出されている。
遡ること60年、昭和と令和とでは時代は異なり、若者の姿も変貌して当然だろう。高度経済成長期に向かうさ中、日本はまだ貧しかった。高校へ進めるだけでも有難かった時代、親に負担をかけまいと、私たち商業高校の生徒はアルバイトに精を出した。普通科高校から大学へ進学できる人たちは「学卒」として社会の支配層を担うのだが、その青年たちも卒業式には学生服や平服で臨んだのであって、美容室で衣裳を調える者はいなかった。
"高校卒業後は社会人"この3年間が学生時代の最後ということで、私たち仲間は友人同士の交流を深め青春を謳歌した。勉強以上にクラブ活動重視の学校方針もあって、文化部・運動部双方に所属し目いっぱい活動した。卒業式当日、働きずくめの親たちと記念写真を撮って晴れの門出を祝ったのである。
私の場合、少し変わっていたのだろう。就職先を決めるに当たって、学校側が敷いたレールの上に乗ることに抵抗を覚え、親友の義兄の紹介で外資系の航空会社に職を求めた。といっても、羽田空港における貨物搭載係でいわゆる肉体労働だ。就職担当の先生には「高収入(日本企業の2倍)と学歴の差別がないこと」を挙げて申し開きをした。しかし、一青年が思い描いた将来が簡単に開けるほど社会は甘くない。カーキ色の作業服(搭載係)から紺のダブルの制服(乗客対応のカウンター業務)への「夢」はあっさり潰えた。ロンドン本社からの「欠員補充はしない」という通告が掲示されたのである。
となれば、一生肉体労働では終わりたくないので、高卒でも収入の高い貿易会社への転職を考えた。父の病死をはさんで、二つ目の会社は銀座にあった。そこで、「自分とは何か。なすべきこととは何か」という根本的な命題を突き付けられる。いくら好きだといっても、私の英語力では、当時の大卒の社員に太刀打ちできない。生きる目標を失いかけた。
自分はこれからどうすればよいのか。そもそも自分には何がある?手ごたえを感じたものがあるのか…一つだけあった。高校卒業後に仲間と作り上げた「演劇・舞踊・音楽の総合イベント」。そうだ、演劇の勉強を大学でやってみたいな!
「道」を模索していた若者に何人かの大人が手を差し伸べてくれた。アルバイトと受験勉強で消耗していたのか、横須賀線車内で立ち眩みを覚えたこともあったが、なんとか「演劇科」へ滑り込むことができた。学生運動が渦巻いていた当時、社会・歴史・芸術への目を開かせてくれた4年間は「生きる軸」を持たせてくれた重要な時間となった。
18歳で高校を巣立ち、3年間社会で働き、また4年間大学で学んだことで、自分なりの「軸」をやっと持てたのだが、その出発点を考えてみると、「大人が敷いたレールや時代の大勢に距離をとること」であった。



