生活者としての「日常」を脱して、構想中の作品世界だけに集中するために「旅」に出る。北関東や東北には新幹線自由席を利用する。予算に余裕がないので、たいていは「温泉一泊仕事旅」になる。一泊では交通費を考えるとかえって不経済かもしれないが、それでも無名の物書きにとっては今やなくてはならない「非日常」となっている。
東京近郊には箱根という名だたる温泉郷がある。新宿からロマンスカーを利用すれば箱根湯本まではあっという間である。今回は、更にバスに揺られて35分、芦之湯で下車、「きのくにや旅館」に投宿する。300年の歴史がある老舗の温泉旅館。浴場に隣接する美術回廊には、西郷隆盛の書をはじめ幕末から昭和にかけての著名人の絵画や足跡が展示されている。硫黄の匂いが立ち込める割には無色でまったりとした泉質がすばらしい。江戸時代は湯治場で、明治以降は避暑地となった。箱根越えで一泊した江戸の旅人、高台での避暑と交流を楽しんだ近代の芸術家たちを想い、その歴史の流れに身を置きながら懸案の創作にも想いを馳せた。
さて、箱根の山には多彩な温泉場がいくつも点在している。その中でも仙石原温泉は「にごり湯」が持ち味で、格式ある「仙郷楼」には何度か宿泊している。亡き母を伴って訪れたのは数十年前だったこともあり、今回は内装がリニューアルされていた。食事会場には何十もテーブルが配置されていてその間を配膳係が行きかうには便利、ゆっくり食事を楽しみたいお客は落ち着かないという改装…昔お気に入りの宿だった小説家高見順もこれには眉をひそめるのではないだろうか。明るくピカピカなのは都会だけで十分、非日常の時間空間の旅にはむしろほんのりした薄明りと年季の入った調度品が必要なのではないか。これは高齢者だけの思いなのだろうか。



