《今日の記事は、2015年に書いた記事を、書き加えしながら再掲するものです。

井上ひさしさんについて書いた記事を振り返っているうち、教員としてぼくが子どもたちへ向けていることばについても考えるようになりました。井上さんが様々に指摘していること、それへの無頓着さ、これこそ、ぼくの子どもたちへ語りかけていたことばの姿だと思ったからです。

 

いまも、子育てをする保護者の方、学校現場で奮闘(いや苦悩かなあ)する教職員、若者たちの困難などに寄り添っているとき、ずっと気になることば(ぼくはそれは”呪いのことば”とさえ思っている)があります。自分への「がんばります」、他者への「がんばれ」がそれ。

 

この問題意識は、竹内敏晴さんの本を読み、また講演などを聴いて、「からだとことば」について意識して考えるようになってからだったように思います。その「がんばる」を発する自分自身のことばへの身体性理解が欠けていることが気になりました。

そこで、「がんばる」を一切封印してみようと思ったのです。

こうした背景がある記事です。》

 

このブログ記事を5045(--2024.7.30現在)回も書いてきて、1回も使っていないことばがあります。一般の人が多用しているのに。

若者支援、こどもの姿、教育実践などを語るのに、他の人とはかなり違います。
小学校の教員という現職時代にも、ある時からはそのことばは使いませんでした。
若い時には、そのことばをぼくもたくさん使いましたが。
さあそのことばはなんでしょう。

それは、「がんばる」です。
「がんばります」という人のことばを聞いたり、読んだりすると、ぼくは痛々しさを感じます。そのことばを、ちょっと引っ込めたらもっと楽になるのになあ、と。

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かつて、こんな文を書きました。
『らぶれたあ』(かもがわ出版)からです。もとは学級通信『らぶれたあ』に書いた文章です。10数年以上も前のものだから、その時の学校現場の状況もこの文章には反映しています。

 達人のことばから学ぶ
 人生の達人ともいうべき人たちがいるなあ、と思うことがあります。軽やかで、やわらかで、遊びがある人のことです。ぼくがあこがれるこうした人たち、例えば山藤章二さん、天野祐吉さん、永六輔さん、井上ひさしさんなど。(そのころまだこれらの方たちは活躍していました。)


 ぼくなどにはそうした軽やか、やわらか、あそびがあるなどの要素が少ないので、余計にこれらの人たちの発言に心惹かれます。
 達人・天野さんが、「がんばる」のオンパレードの風潮を軽く笑いのめす文章を新聞コラムに書いていました。ぼくもかねがね「がんばる」「がんばれ」の“大安売り”を気持ち悪く感じているので、我が意を得たりという文章でした。

(今や山藤章二さん以外は、鬼籍に入っておられます。)

 


 ぼく自身は「がんばる」ということばはここ10年ほで、まったく使っていません。それは「がんばります」と言って体を硬くしている人(子ども)を見るからです。「どこががんばっているの?」と思えるのに、やたら「がんばります」を連発する無頓着さは願い下げです。十分「がんばっている」のに、それでも自分責めて鼓舞する痛々しさ。

 背中をそっと押してあげたい
 子どもたちと接していて、かけたいことばは「がんばれ」ではありません。「いまのキミでいいんだよ」ということです。追い立てたり、責めたりする側がいて(親や教師)、それを苦痛に思う子ども(それを自覚できていない場合も多い)がいるというのは、関係としては異様だと年々強く思うようになっています。
 子どもはこうした強迫的な関係が強まると、自信を持てずオドオドし、自らを傷つけたりし、その一方でやたらに攻撃的になったりします。
 そんなに「我を張ったり」「がまん強く努力する」(する必要もない努力を)ことはない、というのが、ぼくが子どもたちに言ってあげたいことです。
 人間、やる時にはやるもんです。だから、背中をそっと押してあげるような個性的な表現(そのことばを発する人のことばはその人らしさが表れます)こそ言ってあげたいし、使いたいと思います。

 どの子も発展途上人
 学校を変えなければという声高な主張が学校現場を覆っています。そして、教師にも子どもにも「がんばれ」「もっとがんばれ」「努力せよ」と強く迫ります。学校を変える必要性は内側にいるぼく自身が強く感じているものですが、それは、あくまで教育的な条理を踏まえたものになるべきです。やわらかに、一人ひとりの子どもたちの今を語ることこそ、現場の求める改革の中身です。
 にもかかわらず、教育「改革」の方向として打ち出されているのは、学校に民間活力を導入するというものです(今だと、ICTかな)。学区自由化もこの流れの中で主張されます。それは、現在の学校の<非効率性>をヤリ玉に挙げて、効率と競争を第一とすべきだとするものです。この方向での「改革」は、多くの子どもたちを切り捨てることになってしまうと危惧を持ちます。
 「勝ち組」「負け組」という現実の風潮を教育現場に持ち込むことは、発展途上人である子どもたちには百害あって一利なしではないかと考えます。
「ひとりずつ限りなく違っている人を育てる」という教育の営みこそ大切だとぼくは思っています。

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教師特有のことばがあります。日本社会に特有と言ってよいかもしれません。
「がんばります」「がんばりなさい」「がんばったね」がそれです。
ほかにも、「ちゃんと」「きちんと」「しっかり」もそうです。それを言われれば言われる程苦しくなるから、それらはまるで「呪いのことば」のようです。

ぼくは子どもたちや、苦しむ若者たちと語るとき、これらのことばを封印するようにしました。そうすると、新たなことばをさがさねばならないから、初めは苦しかった。でも、「がんばれ」「がんばる」を封印すると、自分のことばを探すために、子どもを具体的に見るようになりました。

今は「がんばらないでください」「がんばるなんて言わないで」と多くの人に言いたいです。子どもも自分も、よく見えるようになりますから。でも、それはなぜかという説明が、今日の記事みたいに長くなるので、苦労しています。自分だけは使いませんが。