元旦の夜、何とはなしに観ていたテレビ朝日の深夜の番組『全日本なまりうたトーナメント』は不思議に感動しました。
自分で選曲した歌を方言で歌うというだけなのだけど、素人の歌い手が自分の解釈で歌詞を”翻訳”しています。ほとんど解らないことばになったりするけれど、音として心地よいのです。
優勝した青森の女性の『PLAY BACK part.2』だと、この「PLRY BACK!」と最後に歌うところ、なんと「もどりへ!」。のけぞりました。
曲によってはフランス語なんじゃないの、そう思う歌もありました。
新年バタバタやる番組やめて、またやってほしいと思いました。
ぼくにとって生き方の達人と思える人がいます。状況に対し軽やかな発想で向き合う。
その一人、天野祐吉さんのブログ『天野祐吉のあんころじじい』に「ことばは音だ」というエントリー(記事)があります。
(ここにリンクを貼れればいいのだけれど、何度やってもできない。今年の課題ですね。誰かに素直に訊けばいいのに、天の邪鬼です。)
天野さんのことばを観ていた番組から思い出したんです。
天野祐吉さんは、前田知巳さんの作った秋田県の広報CMの紹介をしながら、「ことばは音だ」という考えを主張します。(天野さんのブログに映像があるので、できればそれを見てください)
この映像を紹介した後、天野さんは、次のように書きます。
「どうですか。いいでしょう?
まず、温泉の湯煙の中から聞こえてくる女性のナレーションが、何を言っているのか、全然わからない。でも、そこがいいんですね。まるで音楽のように美しいと思いませんでしたか?」
(映像見ないでこう書き写しても説得力ないなあ)
「そう、方言の美しさ、純正秋田弁の響きの美しさですね。
言っていることの意味よりも、情感のこもった音の美しさに思わず聞き惚れてしまう。
で、ぼくみたいなおっちょこちょいは、すぐ秋田の温泉に行きたくなってしまう。ああいうことばをじかに、この耳で聞きたくなってしまうという、というわけです。」
字幕を入れない良さを、天野さんは言います。しかし、秋田県は「何を言っているのかわからない」という声に押されて、字幕を入れます。これを”野暮”と言います。
「字幕が入ると、それを目で追って意味を知ろうとするぶん、耳が留守になってしまう。声を聞かなくなってしまうんです。」
「やっぱり、ことばは音ですね。
音を失ったら、ことばは半分死んでしまう…ことばは何万年も昔から音とともにあったわけで、文字が生まれたのは、ほんの昨日のことですから。」
「とくにことばで音が大事なのは、意味だけでなく、感情が、気持ちが、音に入っているということです。
先日、テレビで福島のおばあさんが「原発はもうイヤだ」と言っているシーンをみましたが、そのことばには、何万語を使っても書き表せない感情が表現されていました。」
「なまりうた」を聴いたときの感動は、ここで天野さんが語っていることと重なります。
若い日、ぼくは童話作家の斎藤隆介さんの自作朗読『八郎』を何度も聴いたことがあります。
東京下町の生まれの隆介さんが秋田弁の作品を書いたのは、「秋田弁はフランス語だ」と思ったからだ、と東北弁の音声としての美しさを語っていました。
実際何度聴いても素晴らしい朗読でした。今でも耳の奥にその声の響きが残ります。