東京マラソンに参加するために田舎から出てきていた「従兄弟」のスミアキ氏と会いました。待ち合わせたのは、埼京線(埼玉と東京を結ぶJR電車)の十条駅。
十条、東十条は懐かしい街です。若き日に、結婚して最初に住んだ街です。
大学卒業後に「日本児童文学者協会」事務局に3年余勤めた後、小学校教員になるためにふら~りとしていた頃です。
幸い、1年間の通信教育での単位取得と埼玉県の教員採用試験に合格したので、家人(看護師)の勤務先変更に合わせ、清瀬市に転居しました。(その後はずっと清瀬に住みます)
十条駅前の路地には、居酒屋の名店(とぼくは思っています)「斎藤酒場」があります。この店の暖簾には「昭和3年創業」とあります。(この日は休業日でしたが。)
その年、1928(昭和3)年には、ぼくの父は12歳、母は7歳。二人はこの街に来たのは息子が暮らし始めた時にアパートへ1回来ています。
ぼくが気になる若き文学者二人はどうしていたのかなあ。
小林多喜二は25歳。「1928年3月15日」という作品を書きました。この作品は3・15の日に全国で起きた社会的な運動の弾圧事件の小樽で起こったことを描いたプロレタリア文学のデビュー作品。3月20日、初の普通選挙が行われる直前の弾圧というものへの告発でした。(多喜二はこの5年後の1933年2月特高警察によって虐殺されます。井上ひさしの戯曲『虐殺』を読むといいでしょう。)
一方、宮沢賢治はその年、32歳。
30歳で4年余勤めた花巻農学校を退職し、羅須地人協会という青年運動を始めましたが、それは挫折し、農民たちへの肥料相談、肥料設計に日夜奮闘した年。大雨の中を夜を徹して動き回った結果、病に倒れています。小康を得て、東京に滞在し、伊豆の大島への旅行もしています。賢治が亡くなったのは5年後の37歳、1933年。多喜二と同じ年に亡くなっています。
当時日本は、戦争へ向かって突き進んでいました。
なんてことを、この古い建物の前でぼんやりと思っていました。
スミアキ氏がここに来るまでもう少し時間があったので、立ち飲みの店に入りました。
安くて、手ごろな「晩杯屋(ばんぱいや)」。