三木句会ゆかりの仲間たちの会:聖木翔人著『70歳からの俳句と鑑賞』から その9 | sanmokukukai2020のブログ

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         三木句会ゆかりの仲間たちの会:聖木翔人著『70歳からの俳句と鑑賞』から 

                     その9

 

 

       焼きたてのバゲット二本秋麗    ふじひろみ

 

      この句は『富士に抱かれて』の連作のなかの一句です。

      実にのびやか、晴れ晴れとした風景(秋うらら)の中、長き棒のような焼き

     たてのパン二本をいたわるようにもつ人の風貌が浮かんできます。これ自体で

     風格のある一句として独立していますが、五句を読んでゆくと、最後にこの句

     で〆た意味も分かります。

      「御坂より菱形富士が秋に入る」。これは北斎の、「富獄三六景・逆さ富士」

     の連想をよびおこす導入。「薪準備村一面の芒原」。この句も自立して充実し

     ており、村のひとびとの冬へ向かう生活の素朴な、力づよい準備風景です。目

     を道端にやれば、おにあさみが気品あるあざやかなピンク色に咲き続く。その

     姿にはさすがの富士の広大な裾野も真逆と思えるひそけさのなかにある。

     「鬼薊真逆にひっそり富士裾野」

      「足高の蜩鳴いて海白し」。この句も自立した一句として味の深いものです。

     ひぐらしという蝉は言われてみれば足高の容姿端麗、前脚がつんと長く、翅は

     透明で品が感じられます。富士に抱かれて朗々と鳴くヒグラシの、あのカナ

     カナカナ、、、、、という切なくも、伸びやかな声は、聴く者の見る風景をも

     変えてしまいます。実際、その鳴き声のせいであるかのように、遠望する駿河湾

     の海は白い。

      そして二本のバゲットパン。バゲットとはフランスパンの一種で、フランス語

     で杖のこと。それは秋という豊穣の季節の恩寵。このうえない秋の富士の贈り物。

      この連作に、岡本眸の「仰ぐとは胸ひらくこと秋の富士」の有名な句を置いて

     みましょう。並べて遜色のない、堂々たる連作です。

 

 

       かつて大軍だった蝗の飴煮かな    かわにし雄策

 

      作者は「六月浜風句会」(「白」三〇一号)で、「言うな、想像させろ」と

     いう言葉を紹介。自らの句作の信条の一つにしていると言っています。

      さてこの句、それにしては、ドドーーンと「かつて大軍だった」と散文的

     措辞で「言って」います。大胆というか、図々しいというか。しかし、ここが

     作者の狙いどころ。誰もが考えそうな題材があたらしい強い俳句になるためには、

     言葉の多様性、表現の斬新が不可欠です。いかにも俳句風にいうとすればここは

     「大軍でありし蝗」などと言うでしょう。そしたらなんともつまらない。意味は

     同じでも言葉の躍動がなく、想像力の翼が羽ばたかない。結局、俳句は言葉が

     風景を作るのですから、言葉に実感、感情が込められていなければならない。

     そこをばねに想像力が広がる。

      「ああ、かつては草原を、広大な田野を、空を覆うように、大軍勢の勢いを

     持って飛んでいた蝗たちよ」と言われてみると、それだけで、この言葉が作る

     風景に圧倒される。そしてまた、大軍勢の「飴煮かな」への、転倒と落差に

     あっけにとられる。句の説明は省きます。この句にはまた、いま権勢をほしい

     ままにしているかにみえる者たちが、決して永久不変ではないことの寓意を

     読みとることができます。

 

 

      鶏頭の燃え立つ村の一揆かな    田中   梓

 

      鶏頭は群生し密集しているとき、その鮮烈な赤い色は、生身の体から飛び出る

     人間の鮮血の色とさえ感じられます。夕日に照らされた鶏頭は高熱を持った血に

     見え、薄暮の鶏頭は、見るほどにどきっとするほど鮮やかで、キリリと、まるで

     たくさんの人間がそこに群がって、たがいのいのちをぴたりと寄せ合っているか

     のように見えます。

      作者は考えるのです。燃え上がる鶏頭の赤は人間のほとばしる情熱の色、人間

     のいのちをかけてなにごとかをやりとげようとするときの、その決断のこころの

     なかの、燃え上がるあかあかとした炎に似ているだろうと。それはいってみれば、

     かつてはこの村を舞台に激しく戦われた一揆の精神、あるいは、いまの時代のなか

     でほんろうされている村の人々の一揆=結束して何事かを変えようとする意志の

     現れとも言えるものではないだろうか、と。

      この句は「鶏頭」の、燃える色の強烈さのなかに、それと溶け合うような、

     村びとたちの、それも激しくいまを変えようとする人たちの行動への情熱と意志

     をみています。鶏頭の花の姿に、人間のこころの動きをかさねてみつめようとした、

     リアルで、躍動感と、しかも情感あふれる一句です。

 

 

 

 

 

               

                                                                                               photo: k. mukumoto

                                                              人が人に疲れて帰る春夕焼            鷹羽狩行