三木句会ゆかりの仲間たちの会:太田酔子さんのエッセイ | sanmokukukai2020のブログ

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    三木句会のゆかりの仲間たちの会:太田酔子さんのエッセイ

 

    『地球酔』 土井探花句集

 

     『地球酔』は、土井探花氏が第40回兜太現代俳句新人賞(令和4年度)を受賞し、

    その副賞として上梓されたものである。新人賞を受賞した「こころの孤島」50句が

    『現代俳句』2023年5月号に掲載されたときに初めて土井氏の俳句に出会った。

    同誌に栗林浩氏が「土井探花の挑戦」という一文を寄せていた。「土井氏が選ばれた

    のは、現代俳句を目指す若者への、新人賞選考委員会からの、<現代俳句のあるべき

    姿>を提示するメッセージだと受け取っている」と評している。

    「俳句の未来」ということをよく耳にする。2024年度の現代俳句全国大会の記念

    講演も坪内稔典氏の「俳句の未来」である。栗林氏の評言の<現代俳句のあるべき

    姿>もまさに俳句の未来の姿ということだろう。

     この句集『地球酔』は、口語俳句に軸足を移してからの299句を、7章に、編年体

    ではなくランダムに収録してある。読み終えた時の印象は「殺伐」「渇き」「情感

    の拒否」「不条理」などだった。「殺伐」とは穏やかさを拒否しているというくらい

    の意味である。

     しかし、それにもかかわらず章につけた見出しは「さびしくて」「退化する」「賞味

    期限」「朝顔の地球」「こころの孤島」「#俳句のアドベントカレンダー」「星の腐臭」

    で、殺伐とは違う、いささか文学臭のある命名で、実は、情感を拒否してはいず、穏やか

    な潤いを存分に持っているのかもしれないと思われた。

     読み終えて最初に抱いた印象はどこから来るものなのか、出来れば言語化したい。未来

    の俳句の影なりとも捉えてみたい。

 

     三択にわたしがゐない日の椿

     季語の置き方に特徴がある。季語が主体にならない、季語を主体にはしない、しかし、

    季語には自由な想像度の広い意味を持たせたうえでしっかりと置く。こういう季語の

    置き方がこの句集には散見される。この椿はいわゆる伝統俳句に詠まれた椿と同じだ

    ろうか。

     <わたしがいない>というのがこの句のテーマ。<わたしがどこにもいない>と言えば、

    ややありきたりになりそうなテーマだが、<どこにも>ではなく<三択に>と閃いた感覚

    に特別な主体がある。感覚する主体が存在する。ただし、その感覚する主体はモノクローム

    である。そして季語を椿と断定した。モノクロームの主体への沈潜から椿が置かれる。

    椿の鮮やかさが沁み透って読者の感覚を刺激する。季語は情感を刺激するものには違い

    ないが、それでも、この椿は、易々と詩情を呼ぶものではない。詩情に浸りたいところを

    軽く押しとどめるものがある。屈折と言ったらいいだろうか。ここに<未来の俳句>の影

    を窺い知ると言ってもよいかもしれない。

     句集の跋文には、この句を五十嵐秀彦氏が次のように読んでいる。

    どれかが正解なのだが、三つの選択肢の中に「わたしがゐない」。自分が見えない日常。

    自己喪失感。そして存在のメタファーとして赤い椿が咲いている。この自分を把握でき

    ないもどかしさは、この句に限らず句集全体に通奏低音として鳴り続ける。

    五十嵐氏は、椿は赤と断定している。そう断定させるものがこの句にあるのかもしれない。

    モノクロームのテーマに配した椿は、色彩鮮やかな椿が相応しい。「俳句が群の芸術」

    と言われ「俳句の読者は同時に作者でもある」として、両者の共通感覚の上に成り立つ

    のが俳句の世界だと言い慣わされてきたが、現代俳句は共通感覚とは異なる、個人独特

    の感覚つまり個人技が称揚される傾向にある。現代俳句は一様な読まれ方を拒む方向に

    向かっているような気がする。

 

     句集全体から筆者が選び出した句は47句、句末が体言止めと用言止めの比率は前者が

    やや多いがほぼ半々である。句集一読直後には、用言で止めている句が多いと感じたの

    だが、一般的な傾向よりも用言止が多い、ということだけであったのだろうか。

     まず体言止めの句について考えてみる。体言止めの場合、普通は季語で止めることが

    多いのかもしれないが、探花句では抽象名詞止めもかなり目立ち、それが印象的で、

    きっぱりと言い放つ潔さが魅力である。

    尊敬ができる胡瓜の曲がり方

     「曲がり胡瓜」とわざわざ命名して商品化することがある。胡瓜農家の中には胡瓜が

    真っ直ぐになるように枷をはめて育てる場合があるそうだ。この句は、真っ直ぐに整形

    されることを拒否した曲がった胡瓜に感情移入して、その曲がり方を尊敬できるという。

    つまり矯め直されることを重要視しない価値観の表明である。

     一物仕立ての句には違いないが、胡瓜に焦点を集めるというより、その曲がり方が尊敬

    できるという判断に重点が置かれていて、「胡瓜を詠む」というのとは少し性質を異に

    している。季語をいわば換骨奪胎しているのだ。もっとも、先人にも胡瓜の曲がりを詠ん

    だ俳人はいる。例えば次の句。

     詩も川も臍も胡瓜も曲りけり   閒石

 

     白線を引けば青鞋忌の地平

     阿部青鞋は1983年第30回現代俳句協会賞を受賞した俳人である。受賞作50句を見ると、

    固定観念をずらし一捻りした句ばかりだし、いかに読めばいいのかうろたえさせる句が

    多い。そして用言止めの句が多い。60%を超える。これはやはり通常よりはるかに多い。

    青鞋の協会賞受賞作には入っていないが、上の白線の句から、彼の次の句を連想した。

     運動会の地面をむしろ多く見る  青鞋

    運動会の主役は子どもたちだが、かつては一家全員が参加する一大イベントであり、運動場

    の地面に直接筵や茣蓙を敷いて、家族総出のお弁当タイムもまた運動会の華だった。

    青鞋の句はその時代の運動会だが、それでも<地面をむしろ多く見る>は視点が低く捻って

    ある。

     この句と直接関係があるかは不明だが、<白線を引けば>と<青鞋忌>とが作用し

    あっていると感じる。徒競走などのために白線を引きなおすのはお弁当タイムで、そこに

    青鞋忌の地平を配したのは手柄と言えようか。青鞋句の特徴と思われる現実のずらし方

    が探花句のおもしろさでもある。

     春愁の痛いくらいが正常値

     落し物の秋思がきれいすぎる件

     春愁や秋思のそこはかとない<あはれ>が微妙にずらされているところが特徴的。肩

    すかしを食わされるようだが、少しだけあとに残る哀感があるのも特徴で、句集一読直後

    と味読後とのずれとも重なるものだ。

     背泳ぎの空は壊れてゐる未来

    仰向けの姿勢は泳法にしては特異で、休息するに相応しく息つぎの苦しさを感じずに

    済む。しかし、それに続くのは不穏な言葉である。未来は未踏であるにもかかわらず

    壊れていると断定する。あくまでも高い空の下で壊れた未来に向かっていく宿命を坦々

    と投げ出すようにうたっている。

     小六月壊れてちやうど良い玩具

     小六月の季語の持っている共通感覚はそれが醸し出す穏やかさにあるだろう。従って

    次に「壊れて」とくるとそれだけで違和がある。小六月と玩具の童話的な親和性を「壊れ

    てちやうど良い」が引き裂く。ふと、玩具とは戦車や大砲かもしれないという妄想が

    沸き起こってきさえする。それだけ親和性を切断する切先が鋭いのだ。

     「死をよこせ」「あたためますか」おぼろ月

     これを読んだとき、探花氏も、コンビニの店員がおでんを「あたためますか」と聞い

    ているシーンを思い浮かべていたに違いないと思った。ほとんど機械的に言葉が出て

    くる社会で、「死をよこせ」にさえ機械的な問答集の答えが出てくる。そしてこの季語

    「おぼろ月」は絶妙と言うべきか、「春の月は朧なるを愛づ」とされる伝統的な季語で

    ある。それをコンビニの会話に配して季語に自由度を与えている。三択に私がゐない日

    の椿の椿と同じように。

 

     口語俳句はいわゆる切れ字「けり」とか「かな」「や」などは置かない。しかし、

    体言止の断定調は「けり」や「かな」に匹敵する用法であろう。では、体言止めの小気味

    良い断定とは違う用言止めの句にはどのような特徴があるのだろうか。

     薄つぺらい虹だ子供をさらふには

     胡瓜の句もこの句も倒置法を使って作者の判断を強調していて、そこにこの句の眼目

    がある。薄っぺらい虹では子供もさらえやしないとは、何のメタファーなのか。子供を

    さらう存在とは、妖怪とか神とかであろうから、神話はもとより童話や民話の世界には

    ありそうだ。さらわれた子供はどこに行くのかと思いを巡らせてみる。現世と異界との

    交流か、伊奘冉尊やエウリュディケーを黄泉の国から連れ戻そうとしたイザナギノミコト

    もオルフェウスも、彼らの過誤のために果たせず、異界との交流は断絶する。さらわれた

    子供も異界に消えるのである。今にも消えそうな、空に溶け込んでしまう寸前の薄っぺ

    らい虹は、子供を異界に連れ去ることができない、神話のなくなった現世のメタファー

    にふさわしい。

     句集の序文に寄せた橋本喜夫氏は次のように読み解いている。

      妙に薄っぺらい、あまり美しくない虹が架かっている。子供が虹の美しさに魅か

    れて 虹を追い求めて、戻って来ずに行方不明になったとしよう。そんな心配がいら

    ないほどにこの虹は薄っぺらいものなのだ。一番鋭敏で無垢な子供さえも誑かすことも

    できない虹を提出することで、詩に対する諦念、そして永遠に捨てきれない探花の詩へ

    の愛憎が込められている。

     詩への愛憎まで読み込んでいるのは作者を長く見てこられた橋本氏ならではであろうか。

    この句では、「薄つぺらい虹だ」の言いきりに、切れ字同等の効果を担わせていると

    思われ、句末の断定が句の中間に置かれていると言えようか。しかし、切れ字に匹敵する

    ものがない次のような場合は、断定調が薄れて印象が柔らかくなっている。

     平和を一年木の実と引き換へに

     これは祈りだろうか、木の実と引き換えに平和をください、この木の実なら平和は

    一年くらいか、というところだろうか。これも倒置である。平和と木の実は決して敵対

    するものではなく、むしろ相性がいい。しかし引き換えるものとして平和は木の実の比

    ではない。そこに個人技めいた現実の読み取りと表出の仕方があり、素直に柔らかいと

    は言い難い。

     鳥だった記憶が蝶を食ひさうで

     轡虫あなたも地球酔ですね

     蝶を食いそうで、どうなのか。省略された用言が暗黙のうちに特定されることが

    用言止のルールだと思うが、ここではむしろルールを無視している。血生臭いことだ

    とか、空腹が自覚されるとか、怖いだとか、特定の結論を目指さない、広い解釈が

    できるオープン=エンドである。いずれにしても不穏ではある。鳥や蝶に仮託している

    ものも特定されない。十七文字の短詩は意図しないでも解釈の幅は広いから、この

    オープン=エンドは完全に無秩序になりそうな瀬戸際にあって踏みとどまっていると

    言える。踏みとどまれているのは、この句が心地よい調べを堅持していることが力と

    なっているように思う。この句集の俳句はほとんどが5·7·5の調べを壊さないし、

    少なくとも17音を守っている。

     轡虫への呼びかけは一見優しそうだが地球酔って何か。探花氏自身の「あとがき」から

    推し量ると、俳句は氏にとって地球という舟に順応するためのコミュニケーション·

    ツールであり、順応途中の「そんな自分のありのままを描きたくて句集名を『地球酔』

    とし」たそうである。地球のありとあらゆることに夢中になっているのか、夢中になり

    たいのか、地球という乗り物に揺られて気分が悪いのか、轡虫に判定してもらおうと

    いうのか、轡虫と同定しようと言うのだろうか。轡虫を選択したことにどんな意味を

    持たせているのか、体は大きいが飛翔力は弱く脚はあまり頑健ではない。肉食ではなく

    草食でしかも葛単食に近いので環境破壊にも弱い。鳴き声はガチャガチャとかなり

    騒々しい、という。昆虫にしては動きが鈍く食性も特異で順応力も弱い轡虫を近親者

    のように呼びかけたか。いずれにしても、「秋鳴く虫」の風情を呼ぶものではなく、

    断定は不可能である。

 

     読了した時の4つの印象に通底しているところは自明であると言ってもいい。20世紀

    前半を覆っていた空気は、陰鬱で、そこに不条理文学が起る。21世紀の現在、世界を

    覆っている空気もその頃と似ているに違いない。不条理な絶望から辛うじて脱し、強大

    なものではなく小さなもの、中心ではなく周縁に目を向けるように歴史は動いていたと

    思われたが、真っ直ぐには進んでくれない。再び陰鬱な絶望がすぐそこにある。その

    空気を吸って吐き出した俳句がここにあるのかもしれない。

 

 

 

 

 

               

                        photo: k. mukumoto

                                         冥王の食卓めいて冬夕焼   土井探花