三木句会ゆかりの仲間たちの会:飛鳥遊子の書籍紹介 その2
『二十世紀名句手帳4 動物たちのカーニバル』 齋藤慎爾
近代俳句は結社によって支えられ、名句秀句は主宰者の単独の選で記録されて
きた。現代の俳句界も殆んどがその形式を踏襲している。結社では主宰者の単選
が絶対的な力を持つ。しかし結社ではムラ社会的な一価値社会が成立しているから、
その内部の俳人だけに通じる名句も、他の結社の人にとっては凡句でしかない。
たとえ名句が生誕しても他の結社には伝えられない。
『二十世紀名句手帖』といった企画は、多少でも俳壇事情に通じている人には、
無謀な試みと映るであろう。誰もやらなかったし、やろうともしなかった。そこで
は名句や秀句は『歳時記』を繙けばよいとの考えが支配的である。だが、『歳時記』
の収録句は必ずしも名句ではない。大部分は「季語」を巧みに使った例として収載
されている。しかもAなる歳時記に載った例句は、その後に他社から出版されたBや
Cなる歳時記にマゴ引きされる。これがいつしか「人口に膾炙されている句」として
認知され、その句が入っていない「名句集アンソロジー」は欠陥本との烙印が押され
ることになる。何という倒錯。人口に膾炙される句が名句ではないのだ。
『二十世紀名句手帖』を試みにどこでもよい、ページを繰ってみてほしい。確信
をもっていうが、「あの作家にこんな名句があったのか」「こんな名句を作っている
無名俳人がいたんだ」という賛嘆の念をおさえることが出来ないはずである。私自身、
「私たちの先行者は、ここまでやったのだ」と粛然とえりを正すことが幾度もあった
ことを書きとめておきたい。
『二十世紀名句手帖』には、子規の作品から、最近の俳人まで、すべて百年という
歳月に拮抗している句を収録している。
◎作家の代表句といわれるもの必ずしも名句ではない。一冊の句集を例にとれば、
序文の中で師が選んだ句以外の句、あるいは作者の自選から洩れた句に掬うべき珠玉
がある。
◎雑詠欄の投句者の作など、ここに収載されなかったら、永劫に、当の結社内部
でも忘れさられ埋もれていったであろう。これは考えてみれば恐ろしいことではあ
るまいか。
◎近現代俳句史上の著名俳人も、百年という時間に濾過させると、なぜ名が残っ
たのか不可解と当惑する局面がある。編者や出版社の恣意、政治力学と、「夭折、
無名、地方性」のために真に顕彰される俳人が埋没させられてきたのである。
◎名句そのものを味わってもらう、名句を記録しておきたい。その一事のため
敢えて作品の初出(制作年代)、作家の略歴、発表誌を省略させてもらった。正直
にいえば、印刷上の煩瑣な工程を省略することで、定価の高騰を押えたかったとい
う出版事情があった。 (つづく)
photo: f. illunseher
次の世へ渡すものあり鳥渡る 村越化石