三木句会ゆかりの仲間たちの会:飛鳥遊子の書籍紹介 その2 | sanmokukukai2020のブログ

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    三木句会ゆかりの仲間たちの会:飛鳥遊子の書籍紹介 その2

 

 

    『二十世紀名句手帳4 動物たちのカーニバル』            齋藤慎爾

 

 

      近代俳句は結社によって支えられ、名句秀句は主宰者の単独の選で記録されて

     きた。現代の俳句界も殆んどがその形式を踏襲している。結社では主宰者の単選

     が絶対的な力を持つ。しかし結社ではムラ社会的な一価値社会が成立しているから、

     その内部の俳人だけに通じる名句も、他の結社の人にとっては凡句でしかない。

     たとえ名句が生誕しても他の結社には伝えられない。

      『二十世紀名句手帖』といった企画は、多少でも俳壇事情に通じている人には、

     無謀な試みと映るであろう。誰もやらなかったし、やろうともしなかった。そこで

     は名句や秀句は『歳時記』を繙けばよいとの考えが支配的である。だが、『歳時記』

     の収録句は必ずしも名句ではない。大部分は「季語」を巧みに使った例として収載

     されている。しかもAなる歳時記に載った例句は、その後に他社から出版されたBや

     Cなる歳時記にマゴ引きされる。これがいつしか「人口に膾炙されている句」として

     認知され、その句が入っていない「名句集アンソロジー」は欠陥本との烙印が押され

     ることになる。何という倒錯。人口に膾炙される句が名句ではないのだ。

      『二十世紀名句手帖』を試みにどこでもよい、ページを繰ってみてほしい。確信

     をもっていうが、「あの作家にこんな名句があったのか」「こんな名句を作っている

     無名俳人がいたんだ」という賛嘆の念をおさえることが出来ないはずである。私自身、

     「私たちの先行者は、ここまでやったのだ」と粛然とえりを正すことが幾度もあった

     ことを書きとめておきたい。

      『二十世紀名句手帖』には、子規の作品から、最近の俳人まで、すべて百年という

     歳月に拮抗している句を収録している。

      ◎作家の代表句といわれるもの必ずしも名句ではない。一冊の句集を例にとれば、

     序文の中で師が選んだ句以外の句、あるいは作者の自選から洩れた句に掬うべき珠玉

     がある。 

      ◎雑詠欄の投句者の作など、ここに収載されなかったら、永劫に、当の結社内部

     でも忘れさられ埋もれていったであろう。これは考えてみれば恐ろしいことではあ

     るまいか。

      ◎近現代俳句史上の著名俳人も、百年という時間に濾過させると、なぜ名が残っ

     たのか不可解と当惑する局面がある。編者や出版社の恣意、政治力学と、「夭折、

     無名、地方性」のために真に顕彰される俳人が埋没させられてきたのである。

      ◎名句そのものを味わってもらう、名句を記録しておきたい。その一事のため

     敢えて作品の初出(制作年代)、作家の略歴、発表誌を省略させてもらった。正直

     にいえば、印刷上の煩瑣な工程を省略することで、定価の高騰を押えたかったとい

            う出版事情があった。                                                                  (つづく)

 

 

 

 

 

 

 

                            

                                                                                  photo: f. illunseher

                                                               次の世へ渡すものあり鳥渡る   村越化石