三木句会ゆかりの仲間たちの会:飛鳥遊子の書籍紹介
『二十世紀名句手帳4 動物たちのカーニバル』
同じ本が年月を経て大きく印象を変えることがあります。誰もが経験することではない
でしょうか。ここで紹介するのは『二十世紀名句手帳4 動物たちのカーニバル』河出書
房新書 齋藤慎爾・編集 という本です。シリーズで出ていて、1<人事>編 愛と死の
夜想曲 2<時候>編 季節の宴から 3<植物>編 花と樹木の饗宴 続刊として天文、
行事、地理、生活も出版されています。
動物や昆虫の好きな私は、まず、このタイトルに興をそそられたことと、編者の名前に
迷いなくて手をのばしたのでした。
初読から時を経て読み返し、新たな感動を覚えたり、わからなかったことが納得できた
りということがあると書きましたが、まさにこの本の凄さは、有名な句ばかりではなく、
編者がその深く広い教養と知識と独断で選び出した無名の俳句も数多く掲載されていると
いうところがすごいのです。
編者・齋藤慎爾がいかなる人物かというと、韓国生まれ、高校時代から句作をはじめ秋
元不死男に師事。思うところあって20年のブランクののち、寺山修司らと『雷帝』を創刊、
50歳頃からは俳句に限らず幅広い分野での執筆活動を行っています。昨年83歳で亡くなら
れましたが、ユニークな文筆家、編集者として知る人ぞ知るキャラの立った存在の人物です。
その巻末「選句余滴」をここにご紹介したいと思います。8巻に及ぶ分野別に分けた俳
句本を編するにあたって、どれほどの句を読みかつ選んだのか、その作業を想像するだに、
気の遠くなる思いがします。飯田龍太は、自句は貶されてもよいが、選句には責任を持つ、
文句は言わせぬといった意を述べているのを読んだことがあります。それほど、選句とは
選ぶ人の実力も感性も俳句への理解度をも露わにする作業と言えそうです。私事ながら先
般、現代俳句協会誌から、400余句から1句を選び感想を述べ、他に10句を選ぶようにとの
依頼がありました。1句はすっと決まったものの、400句から10句を選ぶのにはたいそう苦
労しました。実力不足が露呈してしまうな~~と感じながらの作業でした。著名俳人とも
なれば、新聞、俳句誌、結社誌、投稿など、毎日、毎月あまたの句を読み選ぶ作業をして
いると思うと、つくづく大変な仕事であると思った経験でした。
『現代俳句』誌2024年5月号では、宮坂静生氏が「俳句鑑賞ことはじめ」のなかで、 ”短
詩系文芸である俳句は実作と鑑賞はペアのように重視される。優れた実作者は俳句鑑賞に
おいても、大方が気付かない鋭い鑑賞をすることが多い。それはなぜであろうか。一言で
いうと、虚心にして無心になれるからである。実作においても、鑑賞においても心を空っ
ぽにして対象に向かうこと。ひいては自分の心に立ち向かっているのである。”と書かれ
ています。
事ほど左様に選句とは真剣勝負の作業なのだと思わずにはいられません。
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選句余滴
何が面白くて駝鳥を飼ふのだ
動物園の四坪半のぬかるみの中では
脚が大股過ぎるぢゃないか
ーーー高村光太郎
アルタミラ洞窟(1879年発見)の旧石器時代後期の岩壁画に、野牛、鹿、馬などの姿が
写実的に描かれている。古墳からはさまざまな動物を象った陶片、壺、器、埴輪などが見
つかっている。『古事記』『日本書紀』にも鳥や馬や魚や犬や蜘蛛や蛇などが、<神話>
に彩られながら登場する。『古事記』に姿を見せる「常世(とこよ)の長鳴鳥」は、にわ
とり(「庭つ鳥」)のことで、ここでは太陽信仰という<物語>を持つ霊鳥として考えら
れている。
誰が認めたわけでもないのに、万物の霊長を自称するわれら人間は、他の動物を飼い、
研究・保護を名目にして、捕獲しては「動物園」の檻に囲い込む。バッファロー(野牛)
を全滅させた国の人々が声高に捕鯨を禁止し、わが国を野蛮国呼ばわりする。牛や豚や
七面鳥や羊を食してはいいが、鯨は不可というのだ。
イニユイットたちはたぶん「タマちゃん」を、つまりアザラシを生で食べている。私たち
はテレビで、ハンバーガーをぱくつきながら、「タマちゃん」の動静に一喜一憂し、沿岸
に打ち上げられた鯨の救出劇に胸をいためる。世をあげての「自然に還れ」、エコロジー
的反文明論、感傷的な土着主義の大合唱。なぜ「生きながら淡水に入れられて苦しむホタ
テを想う会」が結成されないのか、と森達也氏(映画監督)は首をかしげる。
森氏は言う。私たちの日常で使用する「化粧品や医療品、洗剤や衣料品など化学物質が
含有されるあらゆる商品には、開発するその過程で動物実験が義務づけられている。要す
るに僕たちの日常は、他の生命を犠牲にしないことには成り立たない」と。
石牟礼道子氏の『苦海浄土』は、公害企業告発とか環境汚染反対を叫ぶルポルタージュ
などではない。渡辺京二氏言う「石牟礼道子の私小説」「自律的な文学作品」である。
描かれるのは、「山には山の精が、野には野の精がいるような自然世界」で、「その世界
は生きとし生けるものが照応し交感していた世界であって、そこでは人間は他の生命と
いりまじったひとつの存在に過ぎなかった」と。
森、石牟礼、渡辺氏らが問わず語っているのは、飢餓や殺戮が今なお地上から消えぬ
世界にあって、過剰な善意やヒューマニズムの自己陶酔が、他の生命や営みへの想像力
を停止させ、思考の麻痺へと発展することに対する危惧、自戒である。動物は私たちの
似姿なのだ。(つづく)
photo: y. asuka
かの象の戻らぬ道の日雷 宇多喜代子