三木句会ゆかりの仲間たちの会:太田酔子の俳句鑑賞 | sanmokukukai2020のブログ

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   三木句会ゆかりの仲間たちの会:太田酔子による鑑賞文 その2

 

    

    収録された150句を通して特徴的だと感じたのは副詞や助詞の使い方の巧みさである。

   俳句という極めて短い詩において副詞や助詞などはどのように評価されるものだろうか。

 

   海の卓さみだれづくめなるほどに   昭和48年

    海の卓と歌い出せば、夏のにぎやかな景色を髣髴させるが、ここでの卓は浜辺に置き去

   りにされ、さみだれに濡れた卓だ。いかにも季節はずれの、快活な春を消してしまう雨で

   ある。海辺のテーブルが「さみだれづくめ」になっているばかりか「さみだれづくめな

   るほどに」なのである。

    この「なるほどに」と結ばれる措辞について、氏は「作者の感情を入れたつもりである」

   と言う。さみだれの中の海の卓という「もの」そのものの描写に、作者はいかなる感情を

   入れたのか、「なるほどに」に課せられた役目は大きく、読者はその感情を読み解かねば

   ならない。読者にはその読解の力量や想像力を試されることになるし、作者には俳句の奥

   行きを深くするテクニックとなる。

    「一つのものを通してどれほどの心情が表現できるか、当時の私の実験句だった」と自

   解しているように、この句を単なる写生句にしていないのが「なるほどに」の力であり、

   「実験句」と言う所以だろう。

    さて、突きつけられたこの句の「なるほどに」にいかなるドラマを読み取ることができ

   るだろうか。快活な春からさみだれの季節へ、季節の移ろいはもののあわれを誘い、逝き

   し春を悼む心象風景としてさみだれづくめの海の卓が鮮やかにたちあらわれる。海の卓へ

   の感情移入は「さみだれづくめ」であるからこそである。つまり「なるほどに」なのだ。

   さみだれづくめであるからこそ平板ではない心情を込めることができている。

 

   うかうかと美男かづらにさそはれし  昭和53年

    先の句とは違って、この句の「うかうかと」は、比喩性を持たせているのではなく行動

   そのものだと述べている。「美男かづら」は、本名「さねかづら(真葛)」で、和歌に親

   しく詠まれている植物だそうだが、実物を見たことがなかった作者が「美男葛」という名

   札を植物園の入り口に見つけて「うかうかと」入った、その時の行動そのものだという。

    行動そのものを副詞を持って上五に据えた。比喩性を持たせていないと言うものの、

   <名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られて(ママ)くるよしもがな>(三条右大臣・

   藤原定方)が本歌であるから、美男かづら(さねかづら)に「うかうかと」さそわれたと

   言いつつ、確信犯的な行動であるとも読めて興味深い。人は「うかうかと」大切なひとを

   失ったりもするのだから。「うかうかと」ないがしろにはできない。

 

   ねんいりに暮れる冬至の南瓜かな   昭和56年

    冬至は昼夜の差が最大で、日が暮れるということを改めて実感する日。「ねんいり」と

   いう措辞はその実感を確かめる意味を持たせたとある。暮れるに係る副詞「ねんいりに」

   はいささか意表をついている。冬至の一日が暮れていくのをいかにも一分一秒にわたって

   感じようとしている。薄闇のしじまに南瓜の「愛嬌のある」形がほの見え、ほっこりする。

   この句のそういう穏やかさを醸し出す働きを副詞が担っているのではないだろうか。単に

   「ゆっくりと」暮れていくのではない、「ねんいりに」には季節の移ろいを大事にする作

   者の心情が仄見える。

 

   俤のさらにふえくる春障子    昭和57年

    俤とは、現実に手で触れることはできないが、まるで現にそこに在るように感覚では捉

   えられるものだ。季語「春障子」について作者は「春障子には開放感を伴った春らしいた

   たずまいがある」と言う。明かり障子を通した光は、硝子戸からの光にはない、和紙を通

   した柔らかさがある。それが春障子であれば華やぎさえ感じさせる魅力的な季語である。

   ところで、俤とはすでに現実には存在しない誰彼で、「春障子」の持つ開放感や春らしい

   華やぎとはいささか相容れない。つまり、春が来て開放的になり誰彼に会おうと思った時、

   俤が「さらに」ふえていることを意識にのぼらせるわけだ。四月は残酷な月、と歌った詩

   人がいるが、「さらに」という副詞がこの句の複雑さを演出している。

 

    副詞を使った印象的な句には他にもある。

   ゆっくりと花の真昼の沁み透る   昭和59年

    真昼の花見であるからこそ「ゆっくりと」できるのだろうし、そうであればこそ身体の

   芯にまで桜のエッセンスが「ゆっくりと」染み透るのだろう。「やわらかい春の大気と桜

   の息とが私の身体に染み透ってゆく」と自解されている。

 

   きっぱりと冬至の朝の山に向く   昭和60年

    「きっぱりと」には身の引き締まる冬の冷たい空気と同時に、荘厳な山に向かった気分

   の両方が表現されているようだ。氏が在学していた名古屋の幼年学校で伊吹山嶺に向かっ

   て大声を挙げた思い出が、意識の底に刻まれていたことと合わせてこの句が生まれたとい

   う。意識の底に沈んでいるものが作句に当たって浮かび出てきて一句を懐かしいものにし

   たり、複雑なものにしたりするのである。

 

   山茶花の散りやうほとんど初心   昭和63年

    散り敷いている山茶花の花を見ての即吟だそうである。左右上下散りどころを知らない

   ような花びらの一枚一枚を「初心」と捉えた手柄に、「ほとんど」を添えたことでおもし

   ろい留保がついた。すべての花びらということでもない、すべてに近い花びらが、「初心」

   と言っていいくらいに、という留保である。

 

   剃刀の刃のひらひらと金魚鉢    平成4年

    この句は自解のおかげで衝撃的な芸術論になる。詩は、固定化したイメージから離れる

   ことで産まれるのは自明のこと。光英氏が金魚の固定したイメージから離れてこの句を詠

   むまでに五十年の時間が経っている。梅原龍三郎の金魚と出会ったのが五十年前のことで

   あった。

   「なんと硝子の鉢からはみ出して金魚が泳いでいる。力強い金魚とはこういうものか、

   まるで剃刀の刃が金魚に変化したようだった」と、五十年間忘れることのなかった龍三郎

   の金魚を俳句という言葉の芸術に仕立てたわけである。副詞「ひらひらと」は剃刀の刃と

   も金魚(鉢)とも相容れない。だからこそのめざましい副詞である。

 

   萩に狐がほろほろと化けてゐる   平成10年

    この句は当時「写生から敷衍した象徴手法に新しいてだてがないかと思いあぐねていた」

   氏が、嘱目吟に少し変化をつけたものだそうである。萩の花の散りようは「ほろほろと」

   であるが、萩が狐に「ほろほろと」化けているというのは萩の花を嘱目しての心象であろう。

 

    いずれの副詞もイメージの重なりを演出するのに使われていて、氏の選ぶ副詞は、十七音

   のなかで五音を割く理由をしっかり持っている。

 

 

 

 

                 

                                    photo: y. asuka

                       春月を抱いて女は海になる   有馬英子