来月を持って三木句会が終わることを受けて、光樹先生から投稿をいただきました。加えて、
三木句会の発足から現在に至る流れを記します。長く関わられた方も、参加して数ヶ月の方
もいらっしゃいますが、最後までお読みいただければ幸いです。
『三木句会』の起点
当時グループの1つとして、宇咲冬男の「あした俳句会」があり、これを追う立場で有冨
光英の存在がありました。当初、私は冬男に弟子入りし、その後、光英のもとに連なり、
俳号も光樹と改めました。その頃から「白俳句会」の芽が出たと言えそうです。どんな色
にも染まっていない無色からのスタートの気持ちで、グループ名を「白俳句会」としたの
がその名の由来です。
三木句会のスタート時を振り返ってみると、「白俳句会」という同好者グループの月例
句会が原点であることは間違いありません。同好の人の集まりである句会は、先輩から初
心者までの交流の場であり、当然に試練の場でもあります。月例句会では、少数のキャリ
アのある先輩から初心者までが同席することが普通でありました。最近では初心者のため
の講習会的句会もありますが、結社中心の句会では、先輩を見習っての自立修行が一般的
であると思います。多くの結社誌が存在し、全国規模の句会も行われている現在ですが、
「白俳句会」のスタートとしては、三木句会が月例句会としては最初だったと思います。
この時期に長く続いた三木句会の終結は残念ではありますが、関与された皆さんの新た
なスタートの起点として、さらなる歩みを楽しみにしたいと思います。
『白』代表 加藤光樹
『三木句会のあゆみ』
三木句会は来る3月をもってその20数年の活動を終了します。そこで、古いメンバーの
哲男さん、美都子さんの記憶をお借りしながら、歩みらしきものを辿ってみようと思いま
す。
結成のきっかけを知る資料を見つけることができました。2002年の『創刊200号記念特
集』に、最古参でいらした実さんによる”今から5年ほど前、大学のクラス会で雑談中に、
光樹さんが俳句の造詣の深いことを知り、早速その場で「俳句を全く作ったことのない人
を集めても面倒を見てくれるか」と聞いたところ、快く引き受けてくれたのが、現在の麻
布三木会の始まりです。”との文章を見つけました。ということは、三木句会の発足は199
7年ということになります。
頭数合わせにとお誘いを受け、私が参加したのが2001年でした。その頃、会場は、実さ
んが会員でいらした銀座6丁目の交詢社会議室。交詢社は明治13年、福沢諭吉の提唱によ
り設立された日本最初の実業家の社交クラブ。建物は趣のあるエントランスが印象深い建
物でした。8名のメンバーが夕刻、天井の高い食堂でハヤシライスかカレーのどちらかをい
ただいてから個室に移って句会が始まりました。今にして思えば、俳句って美味しいな~
と思ったのが命取りになりました。
私の手元にある『白』は2002年7/8月号が最も古いもので、その中では「麻布句会(三
木会)」と記されています。全員が俳句初学であったので、光樹先生は基礎的な俳句のルー
ル、季語のことや切れ字のことなどをワープロで打ち込んだものを毎回のように渡して下
さいました。
2004年、交詢社が建て替えをすることになったことから、三木句会の放浪が始まります。
港区区民センターを会場にする時代が続きましたが、港区民が3回通って申し込み手続き
をし、やっと会場を押さえるという負担のかかる状況が続きました。この頃までには、メ
ンバーは10人を超えていたかと思います。そして、次なる会場は実さんのマンションの会
議室。夜の句会となり、お勤めのある哲男さんら男性陣も仕事から駆けつけて参加されて
いました。
この頃は当日持ち寄った句をその場で表にまとめ、人数分のコピーをとって選句に取り
掛かる、という方法で行われていました。2009年に参加した美都子さんが、手書きの詠
草表を容易にPCで入力できるようにフォーマット化し、事前投句となり、集句、詠草表
作りなど気を遣う作業を10年ほど担当してくれました。その後、この作業は朗子さん、
素さんに引き継がれました。
句会の充実を目指して、実力ある方々を湯島句会から参加していただくことに注力した
時期がありました。三徳さん、あやをさん、可見さん、英子さんらが加わってくださり、
三木句会はバラエティに富む句が増え、ぐんと充実しました。魅力ある句会であるために
は、主力となる中堅メンバーが欠かせないと痛感したのはこの時期です。
それからも放浪は続きます。港区白金の小さな貸スペース、さらに、友人の事務所を夜
間に使わせていただいたことも。そして、京橋のビルの地下会議室を借りて句会は続きま
した。京橋には三徳さんもほぼ毎回千葉から出席してくださり、英子さんもヘルパーさん
に伴われ3回ほどご参加になりました。この頃から梓さんのお声がけで湘南~相模の方々
が入会され、女性陣優勢の賑やかな一時期が続きました。
その間、2019年末には『白』の本流であった「湯島句会」がなくなり、結社誌『白』も
302号をもって終刊という残念なこともありました。その結果、『白』は「浜風句会」と
「三木句会」の2つになりました。
半数以上が湘南方面在住者となったことから、三木句会は会場を藤沢に移しました。と
ころが2019年末から広がったコロナ禍により、翌年から通信句会となり、以降、3年間続
いたのでした。対面でない句会の穴を埋めるべくamebloにブログを作り、『白』誌の表紙
でもあった有冨光英氏夫人の季節の花のスケッチを表紙に使わせていただき、句会報、投
稿、瞬泡さんによる添削コーナーなどを設けました。英子さんのシリーズ「生い立ちの記」
では、ここまで書くか、というほど赤裸々な若き日々を記してくれました。楓子さんの「ア
イスランド留学記」も記憶に残るエッセイでした。校正係としての原稿チェックは酔子さ
ん、アップまでの作業を水流さんが担当してくれました。持てる才能を提供してくださっ
た方々には感謝しかありません。
しかし、長引くコロナ禍の影響は小さくなく、俳句に対する各人の心のあり方や期待す
るところ、さらに体調やら心境やらが徐々に変化する時期が続いたように思います。この
間、あやめさんが、あやをさんが、飛雲さんが、そして英子さんがお亡くなりになるとい
う、大きな悲しみが訪れました。
昔から俳句にも師系があり、明確な主張のある主宰者の流れを継ぐ者たちが句会を継い
でゆくと仄聞する一方、俳句結社は一代限り、との立場をとる向きがあることも頷けます。
現代俳句 vs伝統俳句といった線引きもほとんど意味のないものになりつつあるとも。旧仮
名を使うから伝統、新仮名だから現代と分けることも意味がなさそうです。何をどう詠む
かにこそ俳句に向かう意味があるように思います。
以上が20余年の三木句会の歩みです。三木句会で初めて俳句に向かわれた方々が、作
句の面白さを覚えて、これからどのような句会に参加されるとしても、俳句がこれから
の生活の一部になることを願ってやみません。
加藤光樹代表の代理として3年間、その間、毎回ブログをきちんとお読みくださり、具体
的なコメント、感想を寄せてくださり、励ましてくださったみなさまには、心から感謝い
たします。
飛鳥遊子
photo: y. asuka
水晶の夜映写機は砕けたか 堀田季何