放課後 | sanmokukukai2020のブログ

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   放課後

 

   ふるさと                                                               草野きょう子 

 

   さまざまの事思ひ出す桜かな          松尾芭蕉 

 

    伊賀市上野の駅前には旅姿の芭蕉の像が立っていて、人々は今も芭蕉のことを、

   「芭蕉さん」と親しみを込めて呼んでいます。古くから俳句を楽しむ人は多く、野

   良仕事や昼間の勤めを終えた人々が集まり、あちこちで句会が開かれていたように

   思います。今も大きな句会が毎年行われていると聞いています。故郷を遠く離れて

   いる私も誰かに伊賀を紹介する時には、「芭蕉さんの故郷伊賀上野ならご存じで

   しょう?」と言いそうになります。 

    高校を卒業した春、上野市内の親戚の家に行くと、そこは若いころ芭蕉が仕えて

   いた藤堂家の別邸の屋敷跡と目と鼻の先でした。その時案内されたのが、芭蕉のこ

   の句のゆかりの場所でした。句碑の前で、「わかりやすい句だなあ」と思ったこと

   や芭蕉が訪れた同じ場所にいるという感動は覚えていますが、それ以上芭蕉のこと

   もこの句のことも学ばずに私はその春故郷を離れました。そして、長い年月が経ち、

   最近俳句を楽しむようになると芭蕉のこの句をよく思い出すようになりました。 

    この句のどこに惹かれるのだろう、そして芭蕉の句とはいえ本当に良い句なのだ

   ろうか? 

    芭蕉(本名松尾宗房)が当時仕えていた藤堂藩の藤堂良忠〈蝉吟〉は、みずから主

   催した花見の宴の後25歳で急逝。花見の宴に同席していた芭蕉は、それまで仕え

   ていた主を突然失い、嘆き悲しみ、悶々として悩みぬきました。その結果、武士と

   しての将来をあきらめる決断をして故郷を後にしたのは寛文6年(1666)、芭

   蕉23歳のときでした。 

   故郷を離れて京へ出た後に官職を辞して江戸へ赴き、俳諧の宗匠となり、松尾芭蕉

   として名を知られるようになります。それから22年後、元禄元年(1688)、

   伊賀に帰郷した時、また同じように藤堂家の花見に招かれると、22年前の花見の

   宴のあとに自分の身辺に起こったさまざまな出来事が思い出され、その時のこみ上

   げる思いを詠んだのがこの句だと言われています。奥の細道の旅に出る一年前のこ

   とで、芭蕉は45歳でした。 

    日本古典文庫 『芭蕉名句集 (山本健吉 評釈)』 には確かにこの句も撰ばれていま

   す。山本健吉は、この句について、「芭蕉は、若い日のことを思い出し、感無量の

   体(てい)で、結局さまざまの思いをこめてこう詠むよりしかたなかった。こうい

   う句は、句の善悪よりもその場に臨んだ作者の言語に絶した思いをくみとるべきも

   のである」と評しています。私が今になってこの句に惹かれるのは、この句のおお

   らかな表現です。自由に自分の思いを引き寄せこの句に重ね合わせて鑑賞できるこ

   とです。伊賀盆地の冬は厳しく、長い冬が終わり里山に山桜が咲き始めると人々は

   ほっとしたものです。戦後間もなかった子供時代の記憶、学校や家庭での出来事の

   数々、祖母や父母の会話の断片まで思い出され、今の自分とつながります。そして、

   私にとってはこの句の桜はやはり山桜なのです。 

 

 

                                photo: k. kato

                                                谷の奥妻の木苺熟るるころ    矢島渚男