『俳句の言葉』有冨光英編著より | sanmokukukai2020のブログ

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   『俳句の言葉』有冨光英編著より

 

   二句一章

 

    前述の一句一章と対をなす言葉で、一句の中に一ヶ所の休止を持つ句を言う。休

   止をもつということはそこで意味が切れるとことでもある。中途半端で切れること

   はほとんどなく、切れたところで大体文脈は完結している。完結した語句が二つあ

   る句を二句一章という。

      草臥れて宿かる比や藤の花  芭蕉

      菊の香や奈良には古き仏かな    

   例句として挙げた句は二句共、「や」の切字で意味が切れている。切れていながら

   読者の頭の中では一つの情趣をえがくことができる。『去来抄』に言う。

    「先師曰く、発句は物を合すれば出来るなり。其能取合するを上手と云、悪敷を

   下手と云也」

    二つのものを上手く取り合わせた句がうまい句と言っている。この続きがある。

   「許六曰く、発句はとり合物也。先師曰く、是程しよき事の有を人は不知也。去来

   曰く、取り合せて作する時は句多吟速也。初学の人是を思ふべし。巧者に成るに及

   んでは、取合す、取合さずの論にあらず。」

    芭蕉はこのようないい作り方があるのに人は知らないと言い、去来はこの方法で

   作れば早く沢山できるとも言っている。ただし熟達すれば二句一章でも一句一章で

   も問題ではない、と喝破している。

    明治中期から子規の写生説が新俳句の中核となったが、どうしても一句一章にな

   りがちだった。そこに大須賀乙字が現れ、二つの概念が複合して一章をなすという

   二句一章説を唱えた。

      木揺れなき夜の一ツ時や霜の声  乙字

    大正四年のこの作が二句一章の代表句と言われている。夜の無音の声と、霜の無

   音の声が取り合わされ一つの情景を描くという趣向である。

    二句一章にしても一句一章にしても、俳句性の内面にあるものを探ろうというの

   が主眼ではなく、俳句を作る手段として提出された方法論である。だから時により

   一方に傾く場合もあり、一方を強調する俳人もいる。故人だが吉岡禅寺洞は一句一

   章論者であり、山口誓子は二句一章論者だった。

 

 

 

 

                                                               Pruning in Osaka Ⓒ  David West