『俳句の言葉』有冨光英編著より
二句一章
前述の一句一章と対をなす言葉で、一句の中に一ヶ所の休止を持つ句を言う。休
止をもつということはそこで意味が切れるとことでもある。中途半端で切れること
はほとんどなく、切れたところで大体文脈は完結している。完結した語句が二つあ
る句を二句一章という。
草臥れて宿かる比や藤の花 芭蕉
菊の香や奈良には古き仏かな 〃
例句として挙げた句は二句共、「や」の切字で意味が切れている。切れていながら
読者の頭の中では一つの情趣をえがくことができる。『去来抄』に言う。
「先師曰く、発句は物を合すれば出来るなり。其能取合するを上手と云、悪敷を
下手と云也」
二つのものを上手く取り合わせた句がうまい句と言っている。この続きがある。
「許六曰く、発句はとり合物也。先師曰く、是程しよき事の有を人は不知也。去来
曰く、取り合せて作する時は句多吟速也。初学の人是を思ふべし。巧者に成るに及
んでは、取合す、取合さずの論にあらず。」
芭蕉はこのようないい作り方があるのに人は知らないと言い、去来はこの方法で
作れば早く沢山できるとも言っている。ただし熟達すれば二句一章でも一句一章で
も問題ではない、と喝破している。
明治中期から子規の写生説が新俳句の中核となったが、どうしても一句一章にな
りがちだった。そこに大須賀乙字が現れ、二つの概念が複合して一章をなすという
二句一章説を唱えた。
木揺れなき夜の一ツ時や霜の声 乙字
大正四年のこの作が二句一章の代表句と言われている。夜の無音の声と、霜の無
音の声が取り合わされ一つの情景を描くという趣向である。
二句一章にしても一句一章にしても、俳句性の内面にあるものを探ろうというの
が主眼ではなく、俳句を作る手段として提出された方法論である。だから時により
一方に傾く場合もあり、一方を強調する俳人もいる。故人だが吉岡禅寺洞は一句一
章論者であり、山口誓子は二句一章論者だった。
Pruning in Osaka Ⓒ David West