瑞泉寺の超巨大ネットワーク | 面白いもの「紹介・SHOUKAI」

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まったくの独断と偏見なので客観性はありません・・・・・・・。

瑞泉寺の超巨大ネットワーク



真宗大谷派井波別院瑞泉寺というのが正式な名称。

本願寺第五代綽如により1390年に建立。

浄土真宗の開祖の親鸞は有名だけど、第五代綽如の知名度はもう一つ。

それまでは、関東地方でしか勢力のなかった浄土真宗の勢力を、一気に近畿から北陸方面に広げたのが、第五代綽如。

朝廷を動かすほどの博覧強記で、しかも行動力があり、さらにはどんな僻地へでも自らが赴くという情熱があって、特にこの井波地方では、
カリスマ的な存在となったらしい。

44歳で突然の死去。伝説では「南朝方の凶刃に倒れ、簀巻きにして庄川に投入された」とされ、その悲劇的な最期が、イエス・キリストを連想。

のちに浄土真宗一向宗の勢力が、上杉謙信や織田信長と対決していくのも、なんだかキリスト教の十字軍と重なってきそう。


瑞泉寺は別名、瑞泉寺城・井波城と呼ばれ、ほとんど城郭都市という印象。

たぶん、半径50キロくらいの範囲に、ものすごいネットワークを持っていたのではないだろうか?


茨城県西部から栃木県南部にかけて、推定1000人から2000人の開拓移民が1820年前後に移り住んだとされ、父方と母方の先祖が、その中に関係していたのはほぼ確実。

檀家になっているお寺の話では「300人(あるいは300世帯)を引き連れて、砺波地方から寺ごとやってきた」という。

おそらく、瑞泉寺を中心としたネッワークが関東にもあって、何らかの交渉が成立したのではないか、と考えているのだがどうたろう。

また、地元の風習では、昭和30年代ごろまでは、本願寺に分骨するおりは、瑞泉寺経由で寺社の報告し、北陸経由で京都に向かったという。
大変な労力と考えられるものの、それだけ結びつきが深かったのかも。




ちなみに結城藩の水野家は能登の西谷内1万石から1万8千石に加増されて、1700年に転封。

初代の水野勝長は幕府の実力者の柳沢吉保の側近だったため、幕府側にも、加賀藩の前田家とも調整が可能だったのではと推測。

また、鎌倉時代の結城家初代の結城朝光は浄土真宗開祖の親鸞を手厚く保護したのは有名で、北陸の信者たちのイメージもよかったのかも。

当時、天明の大飢饉(1782-1788)、天保の大飢饉(1833)の復興政策が展開されていて、関東各地の藩では「入百姓」という開拓移民政策を展開しており、東北・北陸の農家の次男三男を優遇して受け入れたらしい。

「信末」「沖」「土山」「蓮沼」「桑谷」など、結城でなじみのある苗字の人は、みんな井波町周辺のゆかりの人たちといえそう。


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