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Style FM日曜討論8月22日放送の内容の要点の報告を続けさせて頂きます
●菅談話「国と文化を奪われ」----批判 その5 つづき
<当時の韓国を挟んだ日本と中国、ロシアの切迫した東アジア情勢の理解抜きにしては何も理解できない。>
・日本にとって露西亜の南進政策により韓国がロシアの支配に落ちると、その次は日本が狙われるとの危機感が切実であった。
・日本は朝鮮の自立を望んだ。
日朝修好条規 明治9・1876年2月26日「第一款 朝鮮國ハ自主ノ邦ニシテ、日本國ト平等ノ權ヲ保有セリ」
しかし現実は、朝鮮の事大主義に振り回された。朝鮮はより強い相手に頼ろうとして、或る時は清国を頼り、或る時は日本と提携し、また或る時はロシアに乗り換えた。
・日本は、露西亜の南進の脅威を切実に認識しており、半島で日本の勢力の後退という同じ失敗を三度も繰り返す訳にはいかなかった。
・キムワンソブ<清国と露西亜は独裁王朝国家、日本だけが近代的法治国家であり、朝鮮の未来は日本と組むしかなかった。>
●日朝修好条規 明治9・1876年2月26日
「第一款 朝鮮國ハ自主ノ邦ニシテ、日本國ト平等ノ權ヲ保有セリ」
●壬午事変 明治15・1882年7/23 親日政策の閔妃政権を大院君が倒すが、閔妃は袁世凱を頼って反撃。大院君は1カ月で失脚し北京ちかくに3年間監禁される。この後清国の支配が強くなり、日本は後退した。
●甲申事変 明治17・1885年12月4日 金玉均の3日天下。閔妃は又も袁世凱を頼って反乱軍を鎮圧してもらう。このあと袁世凱が朝鮮総督のような実権をふるう。日本は後退
●東学党の乱 明治27・1894年5月 これも閔妃は袁世凱に頼んで鎮圧。
日本も天津条約に基づいて朝鮮に出兵。
●日清戦争日本は朝鮮での日本の影響力確保の為に清国と戦うことを決意
・明治27・1894年7/25 豊島沖海戦に勝利、8/1日本は清国に宣戦布告。
・明治28・1895年4/17下関条約 「第一条 清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独
立自主ノ国タルコトヲ確認ス」
・明治28・1895年4/23 三国干渉
●三国干渉に屈した日本を見た閔妃政権はロシアに接近------
日本も清国も頼りにならずと今度はロシアに頼ろうとした。
●閔妃暗殺事件 明治28・1895年10/8--------朝鮮にいた日本人は閔妃がこのまま居たらロシアの天下と危機感。
●俄館播遷 明治29・1896年2/11、大韓帝国の皇帝・高宗は我が身を政敵から守るとして、ロシア公使館に1年間逃げ込んだ。
≪韓国は統一のチャンスを2度逃した。≫
韓国人のお決まりのセリフ『当時の韓国に日本が要らぬ干渉をせずに放置してくれたら自分たちでなんとかやっていた、余計なお節介だった』
しかし、戦後の朝鮮半島の歴史を見ると、朝鮮人・韓国人は自らの力で朝鮮半島を統治する能力はあるのか?と疑いたくなる。少なくとも2回チャンスがあったのに、南北で争うばかりで統一できなかった。
一回目。しなくても良い朝鮮戦争を金日成が仕掛けて100万~400万人に犠牲者を出した。民族解放戦争というお題目は全くの大嘘であることはその後の金日成の独裁政治を見れば明らか。
二回目。ソビエトが崩壊した時、ドイツは1兆円ちかいおカネをソ連に支払いソ連兵を東ドイツから追い出して東ドイツを吸収。それと同じように、ソ連の圧力が弱まったあの時に、中国も民主化要求に揺れていたあの時に、やろうと思えば南北朝鮮は統一出来た筈。
今でも南北統一にかかる費用を日本に期待している。
いつも豪語する偉大なる民族の誇りはどこへ行った?
南北分断の責任は日本には全くない。ソ連に頼った金日成とアメリカに頼った李承晩の責任である。
統一できないのは朝鮮民族の責任である。
我々は西郷隆盛と勝海舟の江戸城無血開城に感謝しなければならない。
当時イギリスとフランスは幕府と倒幕派藩に小島や開港と引き換えに資金援助を申し出たが日本はきっぱりと断ったのである。
私たちは、日本人が日本人の手で、特亜や売国勢力より押しつけられた自虐史観と決別し、真実の歴史を取り戻す決心をしたことを世界に宣言します
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引き続き下段前回記事もお楽しみいただければ幸甚です。
第2次麻生内閣実現へ