上記記事 その1より続く
亀井 靜香(かめい しずか。1936年11月1日 - )は、日本の警察官僚、政治家。階級は警視正(警察庁退官時)。衆議院議員(通算11期)、内閣府特命担当大臣(金融担当)・郵政改革担当、国民新党代表(第2代)、死刑廃止を推進する議員連盟会長(第4代)。報道などでは新字体を用い亀井 静香(かめい しずか)とも表記される。
■ 警察庁入庁後、警察官僚となり警察庁長官官房調査官を最後に退官した。
■ 警察官時代の階級は警視正である。
■ 退官後、衆議院議員となり、村山内閣のもとで第69代運輸大臣を務めた。
■ また、第2次橋本内閣のもとで第64代建設大臣を務めるなど、要職を歴任した。
■ 自由民主党党内でも政務調査会の会長などを務めた。
■ 広島県庄原市川北町(旧・比婆郡山内北村)で農業を営んでいた亀井素一・静恵夫妻の次男として生まれる。
■ 父は終戦まで山内北村の助役を務め、終戦後は県の嘱託として開墾事業に携わった「中央公論」(中央公論新社)※2001年1月号の「<研究>亀井静香」 より。
■ 広島市の修道中学校に入学。
■ 修道高等学校2年生時に、通学定期券の購入に必要な通学証明の発行を学校が有料化したことに対して批判ビラを配る。
■ これが学校側の不興を買い学校を放逐される(自主退学)。
■ 自主退学後、実兄を頼りに上京し、都立日比谷高校や都立九段高校の編入試験を受けるが入学を許可されず、都立大泉高校に編入し、同校を卒業する。
■ 1956年、東京大学教養学部文科II類に入学。
■ 駒場寮に入りキャバレーのボーイ、家庭教師などのアルバイトをして学費、生活費を稼ぐ。
■ 学生時代は「マルクスの亀井」と呼ばれるほど、マルクス経済学に精通していた。
■ また他校の合気道部の学生を糾合して「日本学生合気道連盟」を結成、その初代委員長を務めた。
■ 1962年、学士入学していた同大学経済学部商業学科を卒業し、警察庁入庁。
■ 鹿児島県警察(徳之島警察署)を振り出しに鳥取県警察本部警務部長、埼玉県警察本部捜査第二課長等を歴任。
■ 鳥取時代には鳥取県議であった日本社会党の野坂浩賢と親しくなる。
■ 1972年、連合赤軍あさま山荘事件、成田空港事件、テルアビブ空港事件の捜査に初代の警備局極左事件統括責任者として参加。
■ 1977年、警察庁警備局理事官青木理「日本の公安警察」(講談社現代新書)によると、公安警察の特殊部隊「サクラ」のキャップを務めていたとされる。
■ 1979年10月、第35回衆議院議員総選挙に初出馬、初当選。
■ 1985年12月、運輸政務次官就任。
■ 1989年4月、 自民党中堅・若手議員による派閥横断グループ「自由革新連盟」を結成、リーダー格として活動。
■ 1989年6月、 自民党党総裁選で石原慎太郎を擁立したため清和研から除名処分(後に復帰)。
■ 1994年6月、 運輸大臣就任。
■ 2005年8月、自民党に離党届を提出、志帥会会長を辞任。
■ 2005年9月、衆議院議員総選挙において無所属で出馬した堀江貴文に苦戦を強いられるが、友人である俳優・菅原文太らの応援もあって26,546票差で当選。
■ 2005年10月、自民党から郵政民営化反対の責任と、新党結成を理由に離党届は受理されず、除名処分となる。
■ 2009年8月30日の第45回衆議院議員総選挙には、引き続き広島県第6区から、国民新党公認、民主党の推薦を受けて立候補し、自民公認候補に67,479票の大差をつけて11期目の当選。
■ 学生時代のアルバイト先で出されて初めて食べたシュークリームが大好物である。
■ 尊敬する人物はアルゼンチン生まれの革命家のチェ・ゲバラと大塩平八郎。
■ ビートたけしに狂言師和泉元彌の母・和泉節子に似ているとネタにされる。
■ かつては自民党に所属していたが、学生時代にマルクス主義を勉強していた影響もあり社会民主主義傾向が強く、保守政党である自民党の理念に賛成しないときもあった。
■ チェ・ゲバラの思想に心酔し、連合赤軍に対しても、取調べを通して向き合った経験から「“世のため人の為”と立ち上がった彼らの思想そのものに間違いはない」と一定の評価をしている。
■ 事務所にはポスターも飾られ、当時事務所に招かれたキューバの「敵国」であるアメリカのハワード・H・ベーカー・ジュニア駐日大使がこれを見て目を剥いたという。
更に下記記事その3に続く