発掘された日本列島2 | 三十九さんの部屋

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福岡県糸島市の三雲・井原遺跡出土の弥生土器。
1~2世紀の弥生時代後期。
普通の土器とはちがい、きめ細かい土で作られ、表面には酸化鉄を含む赤い塗料が塗られて、表面がつるつるになるよう磨かれている。
普段の食器ではなく、墓前祭祀で使われたと思われる特別製。
この地域は「魏志倭人伝」に記される「伊都国」があったとされる。

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奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡から出土した土器。
この遺跡こそ、「邪馬台国」中心部の最有力候補とされる場所。
写真の土器は、近畿、北陸、関東、東海、九州、山陰、瀬戸内など各地のもの。
3世紀初頭から4世紀まで、まさに卑弥呼の時代の大規模集落で、このように各地の土器が集まって出土するという同時代の遺跡は知られていない。全国から人や物が集まっていた場所といえる。
また、特定方位を意識して造営されたこの時代最大規模の建物跡などが発見され、当時の王宮なのではないかと話題になった。単なる集落ではなく、もはや「都市」といってもいい。
近くにある「箸墓古墳」は卑弥呼の墓ではないかともいわれている、最古級の古墳。

「魏志倭人伝」というのは俗称で、正確には中国の三国時代の歴史書である「三国志」のうちの「魏志」の中の「東夷伝」の「倭人の章」のこと。
「三国志」は後漢滅亡後の三国、曹操の「魏」、劉備の「蜀」、孫権の「呉」が鼎立した時代の歴史書。有名な「三国志」はそれをベースにしてフィクションも交えて創作された小説「三国志演義」。
むかしは「中華思想」というように中国が世界の中心という考えがあり、周囲の異民族は文化的に遅れており、中国皇帝に認められてはじめて国家として独立すると考えられた。
中国の周囲、東西南北の異民族、南には「南蛮」、東には「東夷」などがあるとされ、当時の日本は「倭国(矮小な国という意味)」と呼ばれていた。
弥生時代までは倭国は多くの国に分かれており、それぞれの王たちは中国の権威を手に入れようとして使者を送り、皇帝に認められると「漢帝国の倭の奴国の王」という金印を授かったりした。
3世紀、「倭国大乱」ののちいくつもの国が連合国家を築き、それを統治する女王として卑弥呼が君臨した。卑弥呼の使者は魏の皇帝から「親魏倭王」の金印や鏡などを授けられた。
「魏志倭人伝」は魏の使者が倭を訪問し、その道中や卑弥呼、邪馬台国について記している。
ただ、その行程の文面について論争があり、邪馬台国の位置を巡って畿内説や九州説があげられている。
九州の佐賀県では大規模な弥生時代の集落遺跡「吉野ヶ里遺跡」が発見され、大ブームを巻き起こしたが、これは弥生時代の集落。九州では「魏志倭人伝」に記された国のいくつかが比定されているが、邪馬台国といえる遺跡は発見されていない。
畿内か、九州かといわれているが、考古学の世界では畿内・大和というのがもはや常識となりつつある。
「邪馬台国」の「台」は略字で、本来の難しいほうの文字では「臺」と書き、「邪馬臺」という。今に伝わる「魏志倭人伝」(後世の写本)の原文では「壹」となっており、これは「一」の難しい字。だから「やまたい」ではなく「やまい(いち)」だという人もいるが、この「壹」は「臺」の誤りとされる。卑弥呼の後継者「台与」が「とよ」とも「いよ」ともいわれるのは「臺与」か「壹与」であるかの違いによる。
これが「邪馬臺」なら「ヤマト」ともよめるもので、「邪馬臺」の王権がそのまま「ヤマト王権」となっているだけである。実在する最初の天皇(大王)とされる「崇神天皇」は卑弥呼や台与の身内か後継者だったとも考えられる。

この展示では同遺跡から見つかった最古の木製仮面なども展示されていた。

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やきもののバードウォッチング。
動物を象った埴輪には鳥も多く、にわとりもあるが、水鳥もある。
空想ではなく、実在の鳥をモデルにしているかも。だから、知っている人が見れば、その形からモデルになった鳥の種類がわかるかもしれない。
この鳥形埴輪は天理市の赤土山古墳のもの。

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同じ鳥形でも、羽や頭部などの形状が異なる。鳥は死者をあの世へ案内するのだという。
聖域を区切る場所に立てられた木柱には鳥形の木が取り付けられ、それが「鳥居」の原型だという。

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これは珍しいという、いくつかの小鳥がくっついた子持ち鳥形埴輪。
なんともほのぼのした造形。

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奈良時代の硯(すずり)。
当時の硯は土器でできていて、こんな丸い形の硯も使われていた。